三国志演義はあくまで歴史小説であり、歴史を「正確に」綴ったものではありません。しかしだからと言って間違いではなく、正史三国志をベースとして読み物として読みやすく、そして面白く、分かりやすくまとめられてある書物と言っても良いでしょう。
ただし中には「正史と違い過ぎる」「扱いが酷い」「馬良はどうなったんですか!?」などなど、武将ファンによっては不満が出てしまうのも致し方ないかもしれませんね。今回はそんな正史と違う描き方をされている一人、韓玄について話してみましょうか。
この記事の目次
三国志演義の韓玄
まずは三国志演義の韓玄についてお話しましょう。荊州、長沙の太守として劉備の敵として立ちはだかります。その性格は怒りっぽく、むやみやたらに人を殺し、好色で長沙の人々の中には娘をかどわかされた人も多く、民たちからは嫌われていました。
確かにこんな人物が太守やっているとか地獄でしかありませんね。横山三国志の魏延の演説の「韓玄に比べて劉玄徳殿は良きお方だ!(だから長沙は劉備殿に渡そうぜ!)」という演説がそりゃもう効果的だったのは分かりやすい所です。
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疑心暗鬼の心強し
こんな韓玄の配下が、後に蜀の五虎将軍となる黄忠です。
黄忠は既に老将ながら関羽と互角の一騎討ちを繰り広げますが、不運にも馬が足を取られて落馬。しかし関羽は黄忠に情けをかけ、黄忠もそれに気付きます。このため黄忠はこの恩を返してから再び一騎討ちに望むべく、関羽の兜の緒を弓で撃ちました。
ですがそんな武人の心のやり取りが通じない韓玄は、黄忠が裏切ったと思い込んで処刑を行おうとします。この後に魏延が長沙の民を率いて反乱を起こして韓玄は逆に殺され、長沙は劉備の統治を受け入れることになりました。
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※無関係です
因みに魏の武将に、韓浩という武将がいます。この韓浩、若い頃には村を襲ってくる盗賊に自警団を作って対抗、そこを見込まれ、後に夏候惇に見出されて曹操に仕えるようになりました。後にどんどん出世し、漢中を手に入れた際には他の武将から「太守には韓浩殿が相応しいのでは」とまで言われます。
しかし曹操は「韓浩が傍に居ないのはいや!(超意訳)」となってお流れになったという曹操のお気に入り。ですが三国志演義では前述したように悪漢と言うべき長沙太守、韓玄の弟となっています。もちろん正史においては無関係ですので、そこの所は誤解なさらぬよう。
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正史の韓玄
繰り返しになりますが、三国志演義では韓玄は悪漢君主の一言。むしろ魏延が反乱を起こしてやっつけてくれたことで読者は安心したのではないでしょうか。しかし、正史において韓玄は全く違う人物なのです。とは言え、善良な君主であった……というのもちょっと判断が難しい所で。
その記述は
「長沙太守だった」
「劉備に降伏した」
「長沙に墓がある」
としか分からず、韓玄がいつ亡くなったかも定かではないのです。
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韓玄の墓について
さて韓玄の墓についてですが、現在も塚が残されています。その墓碑には、「漢忠臣韓玄之墓」と記されています。これをそのまま読むと漢の忠臣、となりますが、韓玄が漢の忠臣であったかどうかははっきりとせず、実際にも良い君主であった、怨霊だったので祀ったなど、様々な話が残されているそうです。
三国志で神となったと言えば関羽が有名ですが、場所によってはこのように、三国志演義では悪い太守のように描かれた韓玄が祀られているのは興味深いですね。
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