三国志で人材と言うとやはり魏、の国が一歩先んじてしまいますが、蜀にも呉にも、数々の名将たちがいます。今回はその中でももっと評価されても良いのでは?と思われる、蔣欽についてお話をしましょう。
呉と言うとどうしても陸遜や呉王である孫権そのものが色んなエピソード盛りだくさんで目立ってしまいますが、蔣欽だって中々の武将です。どうぞご清聴下さいませ。
この記事の目次
蔣欽は周泰と共に孫策時代から仕える
蔣欽の字は公奕。読みづらいかと思いますが、字は「こうえき」と読みます。
彼の登場は宴会で孫権に体の傷を見せびらかされることに定評がある周泰と共に、孫策の元に仕える所からがスタートです。彼は各地で戦功を立て、江東平定の手助けを行いました。そして孫策が倒れた後は、その後継者となった孫権の元で今度は働いていくことになります。
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張遼の追撃から孫権を逃がした
その蔣欽の働きの一つに、合肥の働きでの出来事があります。そう、張遼がちょっとどころではない、それこそ対峙した孫権や呉軍の皆様からしたら夢にまで追ってきそうなほどの活躍をした(された)合肥の戦いです。
この際に張遼はあと一歩、という所まで孫権を追い詰めますが、この際に蔣欽は他の武将たちと一緒に奮戦。孫権を退却させることに成功し、孫権はこれを高く評価。蔣欽は盪寇将軍及び濡須督となります。
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徐盛に部下を殺されかけるが…
そんな蔣欽は、かつて徐盛と確執が生まれたことがありました。ある時、蔣欽が別のおしごとにかかりきりだった時のこと。徐盛が蔣欽の部下を罪に問い、斬刑にしようとしました。しかし孫権は蔣欽の状況も配慮し、これを許可することはしませんでした。この一件から、徐盛は蔣欽を避けるようになったと言います。
※呉は良く同僚と揉め事を起こして刃傷沙汰になるのです。
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徐盛と協働して曹操を迎え撃つ
その後、曹操が濡須に侵攻してきました。これに当たったのが蔣欽と徐盛です。この際に徐盛の方は以前の報復をされるのではないかと蔣欽のことを恐れていましたが、蔣欽の方は良く徐盛の良い所を褒めて、徐盛はこの一件で蔣欽に心服するようになります。
これを孫権が尋ねた所、「仕事に私情は持ち込みません。どうして私怨で賢い人物を覆い隠したりなどしましょうか」と答え、人々は蔣欽のこの態度を褒め称えたと言います。
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呂蒙と一緒に学問にはげむ
また孫権に「お前も勉強してみたら?」と言われて頑張って勉強し、呉下の阿蒙に非ず、とまで言われるようになった呂蒙のエピソードは有名ですが、実はこの際に孫権は呂蒙だけでなく蔣欽にも同じように言っているのです。
もちろん蔣欽も呂蒙に負けず勉学に励み、孫権は呂蒙と同じようにこの振る舞いと態度を褒めました。蔣欽も呂蒙と同じく、己を磨きあげる気概を持っていた人物と言えるでしょう。
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