夷陵の戦いと言えば、蜀と呉の戦い、として有名です。というか、実際に戦ったのは蜀と呉で間違いはないのですけれども。しかし、時代は三国時代、二つの国が争っているのに、魏にだけまるで影響なし、という訳ではありません。
ではこの夷陵の戦い、魏はどんな影響を被ることになったのか?
今回はこの夷陵の戦いを、魏の側から見ていきたいと思います。
曹操ピンチ!
さて夷陵の戦いまでの経緯をざっくり。そもそもの発端は荊州統治をしていた関羽が北上、つまり魏に攻撃してきたとこからスタート。
この時の関羽の勢いは凄まじく、魏はホウ徳戦死、曹仁が守護する樊城包囲、救援に駆けつけた于禁が水害によって壊滅、関羽に降伏、更にはおうちのなかで反乱相次ぐ……ととんでもない状態。余りの状態に曹操は遷都を考えるほどでした。
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呉の裏切り(※ではない)
しかし元々関係のよろしくなかった呉が関羽の背後を突き、関羽は撤退。その後は関羽は捕縛され、その首を討たれました。また三国志演義ではここが呉の裏切り扱いになっていますが、実際には別に呉が裏切ったということはありません。
そして関羽が処刑されたことにより、復讐に燃える劉備はこの後、夷陵の戦いを始めることになります。
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呉と蜀の戦い
さて夷陵の戦いは呉と蜀との戦いです。この戦いをざっくりと言うと、最初は蜀がかなり押していたけど、途中で一気に形勢逆転し、呉の勝利で終わった、という感じになります。
そしてもうちょっと言うと、蜀側が失ったものが大変大きい。大軍の兵士たちだけでなく、黄権や馬良と言う名将、荊州という要所、劉備のやる気もこれでは壊滅するというもの。実際に、劉備はこの後、失意のまま亡くなります。
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魏:「ラッキー☆」
で、この夷陵の戦い、魏にとってはかなり旨味の大きな戦いになったと思われます。と言うのも三国鼎立、拮抗状態で他二つの国が総力戦体制で戦い、どっちが勝っても勝った方を攻撃すればいいだけのこと。呉が勝てばいずれ精魂尽きた蜀を滅ぼせば好、呉が負けたならばそのまま疲弊した蜀ごと飲み干せば好。
事実、魏は呉への「援軍」として軍を南下させていました。しかし孫権はこの「援軍」に対して警戒し、劉備への追撃を行わずに魏への備えを行っています。
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魏による三方面作戦(成功せず)
その後に起こったのが魏と呉の争い、魏による呉への三方面作戦です。結果、魏軍は呉との戦いで良くある疫病流行によって退却。しかも呉を攻めあぐねている内に、蜀と呉は再び同盟を結んでしまいました。
再び、此処に三国鼎立が成り立った……という訳ではありません。ここでは既に、パワーバランスは崩れてしまっていたのです。
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