夷陵の戦いを「魏」の側から見て考える

2022年5月26日


 

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陸遜

 

夷陵(いりょう)の戦いと言えば、(しょく)()の戦い、として有名です。というか、実際に戦ったのは蜀と呉で間違いはないのですけれども。しかし、時代は三国時代、二つの国が争っているのに、()にだけまるで影響なし、という訳ではありません。

 

魏の皇帝になる曹丕

 

ではこの夷陵の戦い、魏はどんな影響を被ることになったのか?

今回はこの夷陵の戦いを、魏の側から見ていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操ピンチ!

青龍偃月刀を持つ関羽

 

さて夷陵の戦いまでの経緯をざっくり。そもそもの発端は荊州(けいしゅう)統治をしていた関羽(かんう)が北上、つまり魏に攻撃してきたとこからスタート。

 

関羽に降伏する于禁

 

この時の関羽の勢いは凄まじく、魏はホウ(とく)戦死、曹仁(そうじん)が守護する樊城(はんじょう)包囲、救援に駆けつけた于禁が水害によって壊滅、関羽に降伏、更にはおうちのなかで反乱相次ぐ……ととんでもない状態。余りの状態に曹操(そうそう)は遷都を考えるほどでした。

 

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関羽

 

 

 

呉の裏切り(※ではない)

父・関羽とともに亡くなる関平

 

しかし元々関係のよろしくなかった呉が関羽の背後を突き、関羽は撤退。その後は関羽は捕縛され、その首を討たれました。また三国志演義(さんごくしえんぎ)ではここが呉の裏切り扱いになっていますが、実際には別に呉が裏切ったということはありません。

 

ブチギレる劉備

 

そして関羽が処刑されたことにより、復讐に燃える劉備(りゅうび)はこの後、夷陵の戦いを始めることになります。

 

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関帝廟

 

 

呉と蜀の戦い

陸遜

 

さて夷陵の戦いは呉と蜀との戦いです。この戦いをざっくりと言うと、最初は蜀がかなり押していたけど、途中で一気に形勢逆転し、呉の勝利で終わった、という感じになります。

 

陸遜に騙されている事に気づいていない馮習と劉備

 

そしてもうちょっと言うと、蜀側が失ったものが大変大きい。大軍の兵士たちだけでなく、黄権(こうけん)馬良(ばりょう)と言う名将、荊州という要所、劉備のやる気もこれでは壊滅するというもの。実際に、劉備はこの後、失意のまま亡くなります。

 

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夷陵の戦い

 

 

魏:「ラッキー☆」

司馬懿と曹丕

 

で、この夷陵の戦い、魏にとってはかなり旨味の大きな戦いになったと思われます。と言うのも三国鼎立、拮抗状態で他二つの国が総力戦体制で戦い、どっちが勝っても勝った方を攻撃すればいいだけのこと。呉が勝てばいずれ精魂尽きた蜀を滅ぼせば好、呉が負けたならばそのまま疲弊した蜀ごと飲み干せば好。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

事実、魏は呉への「援軍」として軍を南下させていました。しかし孫権はこの「援軍」に対して警戒し、劉備への追撃を行わずに魏への備えを行っています。

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

魏による三方面作戦(成功せず)

行軍する兵士達a(モブ)

 

その後に起こったのが魏と呉の争い、魏による呉への三方面作戦です。結果、魏軍は呉との戦いで良くある疫病流行によって退却。しかも呉を攻めあぐねている内に、蜀と呉は再び同盟を結んでしまいました。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

再び、此処に三国鼎立が成り立った……という訳ではありません。ここでは既に、パワーバランスは崩れてしまっていたのです。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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