三国演義でも最大の山場として知られる赤壁の戦い。そこで諸葛亮は東南の風を呼び孫権と劉備を勝利に導きます。ただ、これはご存知の通り創作です。正史の周瑜伝には諸葛亮に関連する記載はなく、ただ東南の風が激しく吹いていた(時東南風急)とあります。
そこで気になるのが諸葛亮の風を呼ぶエピソードがどのようにして生まれたのか、なぜ魔術師のようなイメージができたのかという点です。今回はそのルーツを探っていきたいと思います。
元代に作られた雑劇が元ネタ?
元代に作られた雑劇の演目の中にも赤壁の戦いに関連するものがあります。王仲文が作った「七星壇諸葛祭風」と作者不明の「兩軍師隔江鬥智」というお話です。
「兩軍師隔江鬥智」は赤壁の戦いがメインですが、序盤で諸葛亮が祭壇上で3日3晩祈祷を行う描写があり、火計によって曹操軍83万を退けています。「七星壇諸葛祭風」は内容を確認できる文献が見当たりませんでしたが、インターネット上にある情報によれば三国志平話の内容に近いと言われています。
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三国志平話における諸葛亮
雑劇と同じく元代頃に編纂された三国志平話にも諸葛亮が風を呼ぶシーンがありますが、演義とは内容が若干違います。まず周瑜を始めとする諸将が集まり、曹操軍を打ち破るための軍議を開始。そこで諸葛亮以外の全員が手のひらに「火」という文字を書きますが、諸葛亮だけは「風」と書きました。
皆が火攻めを提案することを見越して、火計には風が不可欠だという諸葛亮は言います。それに対し周瑜は、風は自然現象だから操ることはできないと諸葛亮に不信感を向けます。それに対し諸葛亮は有史以来、風を呼べる人物が3人いると返答。1人は蚩尤を討った黄帝、もう1人は舜帝の時代に司法を司っていた皋陶、そしてもう1人が自分であると名を挙げたのでした。
黄帝も皋陶も神話に出てくる伝説の人物ですが、平話の諸葛亮は自らがそれと等しい存在であると言っているのです。ただ、平話における諸葛亮は登場時点から自身が神仙であると述べているので、風を呼べたとしても全く不思議はありません。疑問が残るとすればなぜ神仙という設定なのかということです。
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諸葛亮の神格化と物語への影響
諸葛亮が神仙として描かれた理由は恐らく南宋時代に進められた神格化による影響です。南宋時代の皇帝であった高宗は諸葛亮(威烈武霊仁済王)と関羽(壮繆義勇王)に神号を送っています。
この時点では神号の長い諸葛亮の方が格上でなので、三国志平話でも諸葛亮の方が活躍の場や神様を名乗るなど印象が強いです。また、この頃あたりから諸葛亮は半人半妖(半分妖怪)、半人半仙(半分神様)というイメージが定着していきます。
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諸葛亮=道士というイメージ
神様だから風が呼べるというのはなんとなく分かるものの、なぜ諸葛亮は風を呼ぶ際に祭壇を設け、羽扇を持って祈祷を行ったのでしょうか。これは南北朝時代から作り上げられた道士のイメージが影響しています。
三国時代には太平道や五斗米道など道教が発展しましたが、それが南北朝時代にさらに発展し、世捨て人となった仙人や道士の生活ぶりが一般の人たちの中に浸透しました。
諸葛亮は劉備に仕えるまで草蘆で隠居生活を送っていたことから、諸葛亮=道士というイメージを作るのに一役買ったようです。そこから随唐代に諸葛亮の軍略家や発明家として一面が大きく注目されるようになりました。こうしたイメージが現在のスーパー軍師のイメージの一翼になっています。
三国志ライターTKのひとりごと
三国時代から振り返ると諸葛亮は死後に忠臣として評価をされ、同時に発展の途上にあった道士のイメージが諸葛亮と同化し、隋唐代には軍略や発明品などがピックアップされました。
そして南宋時代に神号を得て神格化し、風を呼ぶといった人に非ざる知識や能力を持つ人物として描かれていきました。関羽は同じ時期に神格化されたにも関わらず、死後に化けて出るくらいしか神様っぽいエピソードがありません。
この違いは恐らく道士や仙人というイメージが付いたかどうかの差のように思います。なので、生前の行いが違っていれば、諸葛亮と関羽の描かれ方もまた違っていたのかもしれません。
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