三国志には幾人もの武将たちが出ますし、当然ながらその武将たちには妻がいます。しかし、歴史に名前が記される女性と言うのは稀であり、それこそ「いた」くらいしか分からないことも良くあります。
さて、同時に権力者ともなると幾人もの女性を妻としているのは良く知られたことですが……今回は、ちょっとそのお一人、呉王、孫権の奥さんたちから、孫権の女性の好みを察して見たいと思います!
この記事の目次
孫権が最も愛した歩練師
さてさて、孫権の妻で有名な女性と言えば歩夫人!
歩夫人は歩錬師と史書に名前が残っている数少ない女性の一人であり、歩家の女性です。
元々地方豪族であったようですが、時代は戦乱の世。荒れていく土地から逃れるように母親と共に江東に移住したそうです。そうして容貌が良かった彼女は孫権に見初められ、その妻となりました。
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慎ましい性格だった歩錬師
この歩夫人、孫権の最愛の女性と言われ、慎ましやかな性格をしていたと言われています。。彼女は嫉妬しない性格であり、孫権に他の女性を進めることもあったようで、そういった性格を孫権は非常に愛したそうです。
逆に嘗て妻だった徐夫人は、嫉妬深かったために孫権から疎まれ、周囲に進められても皇后にすることもなく廃されたと言うので、孫権は嫉妬深い女性はかなりタイプではなかったかもしれません。
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男子が生まれず皇后になれなかった歩錬師
さて皇后のお話ですが、孫権が皇后にしたかったのは当然ながらこの歩練師です。しかし、当時の皇太子の孫登を育てていたのは徐夫人でした。孫登も育ての母親である徐夫人を慕っており、序列を通すべきであると徐夫人を皇后にして欲しいと言いました。
臣下の将たちも徐夫人を立后するべき、というも、孫権は納得せず。結局皇后は決まらぬまま、歩夫人は亡くなりました。その後、改めて孫権は歩夫人に皇后の位を追贈したのです。
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袁術の娘、袁夫人
ここでもう一人の女性のお話を。
名前が分かってないので結婚後の名前、袁夫人と呼びますが、この女性、名から分かるようにお父さんはあの袁術です。そう、繰り返しますがあの袁術の娘です。
やりたい放題やって最期にハチミツを所望して大量吐血して亡くなったあの袁術の娘ですから、それはもう甘やかされて思考回路ハニーミルクなお人……という訳ではなかったようで。性格は誠実で慎ましやかな品のある女性だったとか。どうやら国の養育はアレでも娘の養育はバッチリだった御様子。
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袁術が滅んで呉に送られる袁夫人
そんな女性ですが、当然ながら後の歴史から分かるように袁術は亡くなります。国と言ってもういいかも分かりませんが崩壊しました。
彼女は家族と共に劉勲の元に身を寄せましたが、劉勲は孫策らに破られます。この時に袁夫人は家族と共に捕虜とされ、一説には二喬と共に呉軍に送られました。その後は孫氏に引き取られて、孫権の妻の一人となりました。
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【北伐の真実に迫る】
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