曹操ファンの皆様、どうかご容赦ください。今回は、曹操にとっていささか立場の悪いハナシをしましょう。徐州大虐殺です。
これは、曹操が若い頃、徐州の陶謙を攻めた際に、無関係な民衆を数十万人単位で虐殺したというもの。
曹操ファンとしては、なかったことにしたいハナシでしょうが、『正史』および『後漢書』と、歴史書として編まれた書物に記載があるので、むげに「後世の創作だ!」と断じて否定するわけにもいきません。
それどころか、世界史的に見ても、「戦争のついでに無意味な大量虐殺をした人間」に対しては、厳しい評価の見直しがされている昨今。ここは、我らが英雄、曹操についても、きちんと責任に向き合ってもらいましょう。
すなわち、歴史書に記載されている「曹操による大虐殺」は、どういう背景で起こったのか、そしてこの事件について、曹操を擁護できるところがあるのでしょうか、それとも徹底的に指導者責任を糾弾すべきことなのか?
この記事の目次
実際は何があったのか?徐州大虐殺とは!
まずは、『正史』『後漢書』の記述を整理して、何があったのかを確認してみましょう。
これら歴史書に伝えられるところによると、発端となったのは、曹操の父親・曹嵩が陶謙に殺害されたこと。
これに怒った曹操は徐州を攻撃。ここで、公孫瓚から援軍として派遣された劉備が陶謙側についたこともあり、曹操軍は二回の攻撃をするものの陶謙を攻め滅ぼすことができませんでした。
その二回目の攻撃の際に、道行く村や町で徐州の住民を数十万単位で殺戮し、その死体のために川の水は止まり、曹操軍が通った後は、犬や鶏すら見あたらないほどの荒れ地に変えられてしまったそうです。
伝わっているのは、これくらいのハナシなのですが、さあ、これだけでもたくさんのツッコミどころがありますね。ひとつひとつ、ツッコんでいきましょうか!準備はよろしいでっしょうか?
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ツッコミどころ:父親を殺されたから、という理由は正当なの?
まず、動機がそもそも微妙ですよね。現代人なら「むむ?」となるところ。
「父親を殺されたという証拠はどこにあるの?」という点が、まず気になりますよね。これについては歴史書の中でもきわめて曖昧です。「陶謙が意図的に殺した」のか、「陶謙がちゃんと保護しなかったから事故で死んだ」のかが、よくわからない。
ただし私の考えるに、徐州の太守である陶謙が、特に理由もなく曹操の父親を殺害する理由がまったくありません。おそらく、曹操の父は、山賊に殺された、とか、陶謙の部下の中の乱暴狼藉を働く部隊に、重要人物とは知らずに事故的に殺された、とか、そんなつまらない理由だったのではないでしょうか?
つまり陶謙としては、「私が指示したことではないのですが、自分の領地で事故がありました。監督不行き届きにつき、太守として申し訳ない」という立場だったのではないでしょうか。
そのような曖昧さが背景にあることを踏まえた上で、曹操の動機を検証してみましょう。「子として、父親を殺した無責任な太守を許しておけない。軍隊を送り込んで滅ぼしてやる!」皆様の評価は、どうでしょうか。
やはり、こう邪推したくなるのではないでしょうか。「最初から徐州を奪う口実を探していて、父親の死はたまたまの事故、『かっこうの大義名分が立った!』」と思っての侵攻であったのでは、と。
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ツッコミどころ:結局、陶謙を倒せていないのは、なんなの?
もうひとつのツッコミどころ。
「勇んで攻め込んだくせに、陶謙を滅ぼし切れてないのでは?」というところですよね。そうなのです。曹操のこの時の徐州攻撃は、破竹の勢いを見せたものの、陶謙に劉備関羽張飛がついていたこともあり、最後の詰めでトドメを差し切れず、肝心の陶謙打倒を果たせないままに撤退しているのです。
そのうえで、二回目の攻撃の時に、この数十万の大虐殺があったのです。これはもう、「敵の本拠地を落とせなかったことのハライセでは?」と疑われても仕方ないですよね。
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ツッコミどころ:このときの徐州攻撃は曹操にとって戦略的失敗だったのでは?
さらなるツッコミどころは、ここですね。公孫瓚のところにかくまわれていた劉備が、この事件によって徐州に入り、三国志の表舞台にデビューします。
また、この事件をきっかけに、陳宮が曹操を見限り、呂布をリーダーにかかげて反曹操軍を立ち上げます。もっと重要なことには、徐州出身のたくさんの有能な人材が、これを聞いて「反曹操」の感情を抱き、その後、劉備軍や孫権軍に続々と合流することになった、ということです。
魯粛。
張昭。
徐盛など。
どれも、のちに劉備配下、ないし孫権配下で曹操をさんざん苦しめたネームですよね!
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まとめ:徐州大虐殺さえなければ曹操の天下取りは「早々に」決まっていた?
周囲にとって納得のしにくい理由で攻め込み、必ずしも当初の目的を達成できず、そのハライセのような形で大虐殺を行っている。曹操自身の意図や、どこまで具体的に虐殺指示を出していたのかはともかく、現代の感覚から言えば、やはり曹操の立場が悪いハナシですよね。
そもそも、もしこの徐州大虐殺がなかったら?
曹操はしっかりと準備をした上で、もっと早く袁紹との対決に入れたでしょうし、劉備の出世は遅れに遅れ、呂布などが割り込んでくる余地も与えず、献帝についても、もっとさっさと廃して、皇位を奪取できていたかもしれません。
そのうえ、諸葛亮が劉備と出会わなかったかもしないとなると、赤壁の戦いでも曹操が有利。もはや曹操一代で天下を取れてしまったのでは?!
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三国志ライターYASHIROの独り言
やらなくていい大虐殺をやってしまい、「世間の評判」とか「信頼」と呼ばれるところで傷がつき、それゆえにその後数十年、あと一歩で天下を逃し続けたとなると、
どんな強力な英雄でも、戦争をやる際、
・納得できる理由を提示
・余計な殺生はしない
という二点はぜったいに外してはいけないというのが、今も昔も変わらない、施政者の鉄則なのかもしれません。
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