「官渡の戦い」と言えば「三国志」前半のハイライトで、曹操と袁紹の一大決戦ということで知られていますね。この戦いの結果、曹操は天下取りレースの先頭に立ったわけですが、そもそもなぜ「官渡の戦い」は起きたのでしょうか。
今回の記事ではそんな「官渡の戦い」がなぜ起きたか、そしてその結果についても調べてみましょう。
この記事の目次
曹操、献帝を擁し勢力を拡大する
曹操は長年対立していた呂布を倒し、後漢の「献帝」を自分の元に迎え入れることに成功しました。このことで曹操は群雄の中で一歩抜きんでることになるのですが、そんな曹操にも懸念がありました。
河北では名門出身の「袁紹」がいまだ大きな力を持っていたのです。都中心は曹操が抑えているとはいえ、北方に巨大な敵を抱えていることは曹操にとって懸念材料でした。
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曹操暗殺計画と劉備
思うがままに政治を操る曹操に対し、密かに献帝は曹操暗殺計画を練りました。
しかし計画は漏れ、参加者は粛清されたのですが、この計画に参加していた劉備は曹操の命で袁術討伐に出陣していたため難を逃れました。
曹操は劉備に怒り、討伐軍を出そうとします。しかし、多くの家臣は「袁紹は軍を南下させている、背後を突かれるのが心配だ」と主張し、出陣を止めました。
曹操はこの意見に対し、「劉備は優秀だ。放っておくと将来我々を脅かすかもしれない。しかし、袁紹は優柔不断で決断力がない、心配ないだろう。」と予想しました。
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袁紹、好機をのがす
曹操は劉備討伐に出陣し、曹操の本拠地「許都」は手薄になりました。これを察知した袁紹の参謀「田豊」は「今すぐ許都を奇襲すべし。」と進言しました。
しかし袁紹は子供の病気を理由にこれを拒否、田豊は唖然とし、怒りのあまり杖を地面に叩きつけたと言います。
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関羽捕まり、決戦せまる
曹操は劉備討伐に乗り出し、劉備は城を捨てて逃走しました。袁紹が背後をつくことを期待していたのかもしれません。
この時城には関羽と劉備の妻子が残され、彼らは曹操軍に捕まってしまいました。憂いを絶った曹操は「官渡」に進出し、袁紹を狙います。
袁紹はこの地で曹操に一気に決着をつけようとしますが、田豊は「曹操は戦術に優れ、侮るのは危険です。一気に決戦するのは避け、持久戦に持ち込みましょう。」と進言しますが、袁紹は苦言を呈されたのが気に入らなかったのか、逆に田豊を牢にぶち込んでしまいました。
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