魏や呉に比較して人材不足とされる蜀。
しかし、そんな人材不足の蜀には、三国志演義に登場しないばかりに能力はあっても無名という人材がまだまだいました。今回は才能も地位も李厳に次ぐにもかかわらず、記述が少なく知る人も少ない輔匡を紹介します。
この記事の目次
蜀漢の中核襄陽組の1人・輔匡
輔匡は劉備の入蜀後に蜀漢の中核勢力になった荊州襄陽の人です。劉備が益州を平定した後で、輔匡は巴郡太守に任命され西暦222年の夷陵の戦いにも参加。趙融や廖化と個別の陸軍を指揮しながら戦います。
輔匡は武勇に秀で剛毅な性格だったので、馮習や張南、傅彤が呉軍の追撃に遭遇し避けきれずに討ち死にしていく中で生き残り、無事に巴郡に帰還しました。
敗戦のショックで病気になり白帝城に留まった劉備ですが、輔匡も成都には帰還せずに巴郡太守、あるいは護軍として劉備を守り続けたようです。この点を考えると、輔匡は劉備の信頼厚い人であったのかも知れません。
オンライン講義夷陵の戦い
-
夷陵の戦いは無謀な報復戦?勝利していたらどうなる?5月1日(日)生配信やります
続きを見る
地位は李厳に次ぐ輔匡
とてもマイナーな輔匡ですが、その地位は李厳に次ぐものでした。劉備が死んで劉禅が即位すると、李厳が都護となり諸葛亮と共に蜀の将来を任されていますが、輔匡の地位は護軍で李厳の地位に次ぐ高いものです。
しかし、李厳はプライドが高い性分で、年下で共に劉備に降伏した費観以外とは、ろくに交際せず輔匡に対してもガン無視状態だったようです。この事は輔匡は知名度がないだけで、決して無能でも地位が低いわけでもない事実を教えてくれます。
兵站維持は決して平坦な道のりではない
-
なぜ蜀漢の北伐は兵站維持に失敗したのか?食料事情から原因を考察
続きを見る
輔匡の性格は?
輔匡には個人の伝記がありませんが、幸いに季漢輔臣賛という蜀の楊戯が書いた蜀に貢献した人々の史料に輔匡が出てきます。
これによると輔匡の性格は、
輔匡には荒々しい強さがあり、監軍として忠義を尽くして努め、辺境に赴任して異民族討伐の任務に当たったとあります。劉備の死後、輔匡は鎮南将軍に昇進し、その後右将軍、そして中郷侯に封じられました。夷陵の戦いのような潰滅状態でも無事に撤退する事が出来た輔匡ですから、その武力と采配はかなり高いモノがあった事でしょう。
図解で分る夷陵の戦い
-
図解でよくわかる夷陵の戦いと趙雲の重要性
続きを見る
五虎将軍ポストにいた輔匡
輔匡が具体的に、どこに赴いて、どのような異民族を討伐していたかは不明ですが、右将軍は前後左右将軍の事で、以前には趙雲を除く五虎将軍が就任していたポストです。五虎将軍が存在していた頃に比較すれば、就任しやすくなっていたとはいえ、将軍として栄誉あるポストなのは疑いありません。
ちなみに五虎将軍亡き後の前後左右将軍には
前将軍 | 李厳、鄧芝 |
後将軍 | 姜維(降格人事)宗預 |
左将軍 | 呉懿、向朗、句扶 |
右将軍 | 諸葛亮(降格人事)高翔、輔匡 |
このように実力ある人材がついています。
趙雲が五虎将軍で一番下の理由は?
-
これは不公平!趙雲が五虎将軍でドンケツの理由とは?格差の現実を徹底分析!
続きを見る
【次のページに続きます】