[キングダム]李信の運命は悲惨な最期?真実を追求!

2023年8月13日


 

大人気春秋戦国時代漫画キングダム、その主人公と言えばバカだけど仲間を思う心と決して諦めない事では誰にも負けない、元下僕出身の成り上がり(しん)です。実は、この信、架空のキャラクターではなく李信(りしん)という実際に存在した人物なのです。

 

そして、現在上り調子でブイブイ言っている李信は最後には死んでしまうという噂も・・果たしてそれは真実なのか、詳しく検証してみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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李信ネタバレ 李信の功績を紹介

 

今から2200年前、中国は七つの強国に別れて500年の戦乱の時代でした。(しん)()(えん)(かん)()(ちょう)(せい)、この七国の中で天下統一を果たしたのが、中国の西の外れにあり蛮族呼ばわりをされていた秦でした。この秦の王だった人物が秦王政(しんおうせい)であり、後の始皇帝(しこうてい)です。

 

秦王(始皇帝)に会見で近づく荊軻

 

そして、この始皇帝には片腕とも頼む多くの有能な将軍が仕えていました。李信は、そんな始皇帝お気に入りの将軍の一人であり、またもっとも信任を集めた人物でもあったのです。

 

漫画キングダムでは、秦王政がまだ弱小の頃から登場している信ですが、実際に歴史に出現するのは紀元前229年 大将軍王翦(おうせん)が十数万の軍勢を率いて趙と対峙した時に趙の太原、雲中に出征した将軍として登場します。

 

荊軻

 

さらに紀元前226年、秦王政は燕の太子(たん)が自身を暗殺する為に送り込んだ刺客、荊軻(けいか)に対する報復で王翦と王賁(おうほん)に軍勢を与えて送り込みます。李信は、この時に1000名の兵を率いて燕軍を追撃し暗殺計画の首謀者である燕の太子丹の首を討ち取っています。

 

歴史上は、これが李信が最初に挙げた大手柄だと見ていいでしょう。これで、李信は秦王政のお気に入りの人になったようです。

 

李信ネタバレ 項羽の祖父に大敗北

 

ここまでなら完全無欠な英雄ですが、次に李信はやらかしてしまいます。紀元前225年、秦王政は長年の宿敵である楚を滅ぼそうと、若き李信とベテランの王翦に「いくら兵力があれば楚を倒せるか」と質問。

 

これに対して王翦は「60万」と答え李信は「20万」と答えました。

 

秦王政は李信の答えを野心的で勇敢と見て、李信を総大将にして楚の攻略を任せます。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

ところが、李信は副官の蒙恬(もうてん)と共に楚の大将軍項燕に大敗北します。それもその筈、この項燕という人、後の西楚覇項羽(こうう)の祖父にあたり非常に有能な将軍だったのです。李信と蒙恬は命からがら秦まで逃げ帰ってきます。

 

強引に法律の改革を行う商鞅(しょうおう)

 

本来なら戦争に敗れた将軍は処刑され、一族は財産を没収された上に奴隷に落とされるという過酷な運命に落ちますが、なぜか李信も蒙恬も、そんな過酷な処分をされませんでした。

 

もしかすると、李信が秦王政のお気に入りだったという事が、大きな理由だったのかも知れません。

 

 

李信ネタバレ 斉を滅ぼして汚名返上

 

ところが李信の活躍はこれで終りにはなりませんでした。紀元前222年、李信は王賁と共に、燕王が逃げて樹立した遼東政権を攻めて滅ぼします。さらに、返す刀で趙の亡命王族である()が興した代国を滅ぼしました。

 

こちらの代王嘉は、あの李牧(りぼく)が「趙国の光」とまでベタ褒めしていた人物ですがそれを滅ぼすのは李信なのです。なかなか因縁深い話ですね。

 

この手柄で秦王政の信頼を取り戻した李信は、さらに翌年には六国でただひとつ残った斉を、王賁、蒙恬と共に攻めて滅ぼし天下を統一したのです。こうしてみると、李信は日本の戦国時代の武将、仙石秀久(せんごくひさひで)のように大失敗してからこれを巻き返したド根性将軍と言えるでしょう。

 

李信ネタバレ 最後はどうなるの?

宦官の趙高(キングダム)

 

では、天下統一後、李信はどうなったのでしょうか?

 

実は、その後、李信がどうなったか史記では記録が残っていないのです。紀元前221年、王賁、蒙恬、李信の揃い踏みで天下を統一したというのが、李信の最期の消息という事になります。

 

李斯

 

ただ李信が安らかに大往生したと考えるのは早計です。それというのも、秦は始皇帝の死後紀元前210年に後継者を巡る争いが起き宦官趙高(かんがんちょうこう)と丞相の李斯(りし)が結託、始皇帝の遺言を改竄(かいざん)して末子の胡亥(こがい)を二世皇帝に擁立し、ライバルになりそうな始皇帝の公子公女と、始皇帝時代の重臣や将軍達をほとんど粛清したからです。

 

陳勝・呉広

 

趙高は余りにも多くの将軍を殺した為に、始皇帝の死後に起きた農民反乱、陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)の乱を討伐する将軍を出す事が出来ずいよいよ、反乱軍が咸陽(かんよう)に迫るという窮迫した状態になり、本来は将軍ではない章邯が志願して、囚人たちを助命するかわりに秦兵として仕立てて少ない秦軍を補い、やっと反乱軍を撃退したくらいでした。

 

宦官の趙高

 

趙高は保身の為に、六国を滅ぼした将軍達を殺し尽くし、たかだか農民反乱を鎮圧する程度の将軍さえ派遣できずに、反乱を大きなものにしてしまったのです。

 

この大殺戮に李信は連座しなかったのでしょうか?そこに史料がないので否定も肯定も出来ません。一度は趙高に加担した李斯は後に反趙高に回りますが、先手を打たれてスパイの罪をきせられ腰から下を切断する腰斬という刑に処せられ苦しみながら死にました。

 

李信の同僚の蒙恬も趙高の陰謀で毒を飲んで死ぬように命令され絶望して自害し生涯を閉じました。そのような中で李信が最後に悲惨な死を迎えていないとは誰にも言えないのです。

 

 

李信ネタバレ 李信の嫁は誰なのか?

 

本編であるキングダムでも、李信が誰と結婚するのかは大きな話題です。李信の嫁としては、すでにキスを済ませた間柄である河了貂(かりょうてん)が有力ですが、よく意味が分からないながら信の子供を産みたいと爆弾発言をしたり、戦場での事とはいえ、かなりの頻度で信に抱擁されたり背負われたりと密着するシーンが多い羌瘣(きょうかい)も侮り難いでしょう。

 

さらに情熱大陸では、作者自身が信と羌瘣の間にロマンスシーンを構想していると(ほのめ)めかした事もあるので、漫画的には紀元前228年前後、史実の羌瘣が歴史から消える頃に結婚というシナリオが有力かもしれません。

 

とまれ、これは、あくまでもキングダムでの話です。史実の李信の結婚相手となると、これがよく分かりません。ただ、漫画とは違い、史実の李信はかなり名門の出身のようで、『新唐書』宗室世系表によると隴西李氏(ろうせいりし)嬴姓(えいせい)の出自であり、顓頊高陽氏(せんぎょくこうようし)の子孫とされています。本当かどうか分かりませんが、春秋時代の道家の哲学者老子(ろうし)は本名を李耳(りじ)といい、この顓頊高陽氏の出自だそうです。

 

この顓頊高陽氏というのは、秦や趙の王室の祖先でもあり、つまり、李信は遡ると始皇帝と先祖が同じという事になります。そればかりか、あの趙のオフ王とも先祖が同じという事に・・

 

そして、李信の祖父である李崇(りすう)は秦の隴西郡守で南鄭公になり、父の李瑤(りよう)は秦の南郡郡守、狄道侯(てきどうこう)となったとあります。さらに李信自身も秦の大将軍、隴西公(ろうせいこう)になったとされています。

 

何が言いたいのかというと、史実の李信は王賁クラスの名家の出で、おそらく始皇帝から公女を嫁に与えられた可能性が高いです。だからこそ、楚の項燕に大敗しても助命されて、さらに汚名返上の機会も与えられたと見るべきでしょう。

 

※ただし新唐書は唐王朝の出自を飾る為に粉飾が疑われていて、特に、李信から4代先までの子孫について経歴の裏付けはないそうです。李信が隴西公で大将軍になったという記述も新唐書にしか記述が見られず粉飾の疑いが拭えません。

 

李信ネタバレ 子孫は漢の飛将軍

史記_書類_劉邦と始皇帝

 

先に掲げた『新唐書』宗室世系表によると、李信の子孫には、錚々(そうそう)たる面子が名前を連ねている事が分かります。まず、李信の子の李超(りちょう)は漢の大将軍であり漁陽太守になり、この李超には子供が二人いて、長男が李元曠(りげんこう)で漢王朝で侍中(じちゅう)を勤め次男を李中翔(りちゅうしょう)といい、漢の河東太守、征西将軍として反乱を起こした羌族を討伐して戦没し死後に大尉(たいい)(防衛大臣)の位を追贈されています。

 

これを見ると李信の子や孫は、李信が命を賭けて建国した秦を見限り、漢について秦を滅ぼす側に立ったという事になりますね。なんとなく直情径行な李信のイメージにあいませんが・・

 

さらに、李仲翔の子の李伯考(りはくこう)は漢の隴西・河東二郡の太守ととなり、この李伯考の子の李尚が漢の成紀県令になり、その李尚の子が漢の飛将軍、李広(りこう)であるとされています。

 

匈奴の劉淵

 

李広は武勇抜群で優れた名将、匈奴相手に数々の勝利を挙げました。しかし、この人、とても自己PRが下手で寡黙(かもく)な人なので身分も上がらず、ずっと戦争に強い便利屋さんとして辺境で戦いを繰り返しました。でも、とても人望があり皆に信頼され人が集まったので、桃李言わざれども下自ずから蹊を成すという格言が生まれました。

 

桃や(すもも)の樹は、自分で甘いよ!とPRはしないけど、皆、その甘さを知っていて自然に人が集まり憩い、道が出来るという意味です。

 

そんな李広ですが、晩年に対匈奴戦で従軍を願い出るも、部隊が道に迷って決戦に間に合わずそれを恥じて自決してしまっています。正直で己を飾らず嘘が嫌いだった李広は先祖の李信に似ていますね。

 

李信ネタバレ 皇帝までが子孫

 

李信の子孫の躍進はとどまる所を知りません。5世紀、五胡十六国時代に西涼を建国した武昭王李暠(りこう)は李信を祖とし、その曾孫にあたる前漢の名将、李広の子にあたる李敢(りかん)の15代目の子孫を名乗っていました。

 

李暠は大らかな性格で歴史に通じ、武芸にも堪能、孫呉の兵法にも通じており紀元400年に即位してから17年間、北涼の侵略をはねのけつつも、農業と養蚕と交易に力を入れ、儒教を重視して国を円満に治めています。

 

もう一人、李信の子孫には、唐代の大詩人李白(りはく)がいます。李白は前述した西涼の太祖、李暠の九世の孫であったとされているそうです。一説には李白は非漢族なので、李信の子孫ではないという噂もありますが逆に隋末に西域に追放された漢族で、そこで姓を変えて過ごし、唐の時代に入ってから中国に戻ってきて姓を戻したという説もあります。

 

李信の子孫で一番出世したのは、李暠の末裔で隴西郡成紀県を本貫とする李淵(りえん)です。李淵は、北周の唐国公、安州総管を努めた仁公李昞(りへい)の子として生まれます。隴西李氏は隋の前身北国の八柱告の家系で北魏の時代には皇后を出す資格を持つ家柄として重んじられた名門であり李淵が随の文帝の信任を得るようになった経緯は、文帝の皇后が李淵の叔母に当たっていたからだそうです。

 

太宗

 

このように随の文帝に重んじられ手柄も立てた李淵ですが、隋が悪名高い煬帝(ようだい)の時代になり、天下が乱れると息子である李世民(りせいみん)劉文静(りゅうぶんせい)の勧めで反旗を翻し、長安を守っていた楊侑(ようゆう)恭帝(きょうてい)として即位させ、まもなく煬帝が部下の反乱で殺害されると、恭帝に禅譲を行わせ皇帝に即位しました。この李淵の息子、李世民が中国史上屈指の名君とされる唐の太宗です。

 

キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言

 

いかがでしょうか?

 

キングダムの主人公の李信は、本当は名門の出身であり、始皇帝に気に入られて手柄を立て楚の項燕大将軍には大敗しましたが、この罪を許され、さらに手柄を立てる事で挽回し最後には斉を滅ぼして天下統一を始皇帝にプレゼントします。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

しかし、その後の李信の記録は歴史から消えてしまいずっと後の時代に編纂された新唐書にしか存在せず、或いは始皇帝死後に、二世皇帝胡亥を擁立して権力を握った趙高により粛清されたかも知れません。

 

章邯(しょうかん)

 

実際に秦は反乱軍が咸陽に迫る時まで、ろくに対処できず連戦連敗していてもし章邯が立ち上がらなければ、そのまま滅びていたかも
知れないからです。李信のような建国の功臣が生きていれば、そんな事にはならなかった筈で、やはりあらかたの重臣は粛清されていたのかも知れません。

 

それなら李信の最後は悲惨な死であった事になり、その中から一部の子孫が粛清を免れて系譜を継いだのでしょう。一方で新唐書の記述を信じるなら、少なくとも李信は大将軍になって大往生し、その子の李超は秦末の動乱を潜り抜けて漢の高祖に仕えて大将軍になり

 

弓矢を構える李広

 

血筋を前漢の飛将軍、李広に伝え、その後も西涼の皇帝、李暠や唐代の詩人、李白、さらに唐の太祖、李淵を出すなど中国史上でも稀にみる英雄を出した家系になったと言えそうです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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