劉璋の配下の一人、張松のことを覚えていますでしょうか?
『三国志演義』では、醜い小男であると描写されており、その容姿ゆえに曹操のところに使者として向かった折には軽んじられ、そのことにキレて劉備のところに趣き、以降は劉備と意気投合、蜀の地図を描いて献上する等、劉備の入蜀のきっかけを作った人物といえば、思い出していただけますでしょうか?
この人物が本来の主君である劉璋を売る形になってまでも貫いた、この大胆な外交工作によって、劉備は益州方面に進出、やがては劉璋を打ち倒して蜀を建国し、魏・呉・蜀の三国鼎立の一角を築くことになります。ですが、この張松のきわどい外交策略が、もしあっけなく失敗していたら、どうなっていたでしょう?
たとえば、曹操に軽んじられた後に劉備と気脈を通じるところまでは一緒だったとしても、帰国した途端にあっけなく策略を劉璋に見破られ、裏切者としてさっさと処刑されてしまったとしたら?
この記事の目次
劉備の蜀入りに致命的な打撃となる張松の失敗!
正史と三国志演義とではいろいろと違いがあるので、以下では演義の展開に沿って考えていきましょう。まず、そもそも張松が曹操と劉備の間を行き来していた理由は何でしょう?それは、漢中の張魯と劉璋の間で軍事的な緊張関係が増しており、張魯の背後を曹操に討ってほしかったからでした。
そして張松が曹操に失望した後に、劉備に入れ込んだ理由は何でしょう?張松は益州の安定を望んでいたので、当初の彼の主君である劉璋では、とてもこの乱世を生き延びられない、もっと強いリーダーが必要だ、と考えてのことだったのでしょう。この思いから行動していた張松を、劉璋が早い段階で処刑してしまったら?
張魯への対策、曹操との外交、劉備との外交、これらすべての問題が同時に「放置」となってしまった懸念があります。張松一人の死のインパクトは、彼個人の死だけでなく、張松と同じように「周囲を敵に囲まれている益州の未来をなんとかしたい」と考えていた有志の心をへし折ってしまったでしょうから。
そして何よりも、三国時代の歴史全体に波及する影響は、劉備が蜀入りをする大義名分作りが大幅に遅延することです。
もちろん、諸葛亮孔明や龐統が、張松亡き後もあきらめず、あの手この手で工作を実施し、いずれは劉備自身も納得する「蜀入りの大義名分」を見つけ出すかもしれませんが、それには何年か時間がかかるでしょう。そして、劉備の蜀入りが数年遅れることは、それだけで三国時代の歴史に決定的な影響を与えそうです。
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張魯が動き曹操が動き益州は凄絶なカオス状態に!
劉備の蜀入りが数年遅れたら、何が起きていたか。まず考えられることは、張松の危惧通り、張魯と劉璋の間での紛争が勃発することです。
曹操や孫権の規模と比較すると小さく見えますが、劉璋も張魯も、勢力としては決して弱小な存在ではありません。この二者の激突は激しいものとなり、互いに消耗するでしょう。
この戦いが、漢中方面で発生したとなると、これは他でもない、曹操にとってあまりに有利な展開です。張魯が攻めてきて、それとしんどい戦争をしているところに、今度は曹操軍が南下してきて、張魯軍もろとも洪水のように劉璋軍を飲み込み始める。これは劉璋側にとっては踏んだり蹴ったり、まさに悪夢の展開です。
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曹操に対抗できない劉璋がすがりつくのはけっきょく劉備になりそうだが・・・
追い詰められた劉璋の取る道は、二つに一つです。曹操に早めに降伏し命だけは助けてもらえるよう懇願するか、あるいはここにきて、荊州にいる劉備に援軍を要請するか、です。ここでもし劉璋が劉備に泣きつけば、ようやく劉備は蜀入りの大義名分を手に入れます!
つまり、張松が早めに死亡してしまった世界線では、劉備の入蜀開始は曹操の南下を受けてからのこと、劉璋に迎えられて同盟軍として益州に入り、劉璋との合同軍で、南下してくる曹操と対決する形になります。
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窮余の一手は益州で「第二次赤壁」を実現させられるかどうか
それにしても、曹操が北から圧倒的な戦力で南下してくるところを、劉備が他勢力と同盟を組んで待ち伏せして迎え撃つ、というのは、なんだか赤壁の戦いを想起させます。
実際、このシナリオはあたかも「第二次赤壁の戦い」のごとく、劉備と劉璋の同盟軍がいかにして数倍の規模の曹操軍に大逆転できるかどうか、の戦いとなりそうです。しかし、戦力も人材も、主君の胆力も充実していた、赤壁時代の呉に比べて、劉璋軍はどうも見劣りがします。
さらに、赤壁の戦いでは、曹操軍は慣れない水上戦を強いられたために強大な軍事力をうまく活かせませんでしたが、益州の戦いでは曹操側に大きな弱点は生まれそうにありません。ひとことで言って、赤壁の再現のような奇跡の大逆転を放つのは、かなり厳しい。
少なくとも赤壁のような明確な大勝利は挙げられず、何年もかけて益州の山がちな地形をいかしたゲリラ戦術で時間を稼ぐくらいしか作戦はありません。
そうしているうちに劉備の、荊州はみごとに孫権に奪取され、劉備は「蜀建国」どころではない苦難の中で寿命を迎えるでしょう。
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まとめ:劉備の蜀入りのタイミングは張松の手引きの時しかなかった!
こうしてみると、蜀入りが実際より数年遅れるだけで、劉備にとって状況は絶望的でした。史実の展開における張松の登場は、劉備にとってまさに天啓だったのです!しかしよく考えたら、あまりにも長く流浪の日々が続いた劉備が、蜀を建国して皇帝を名乗ったというだけでも、じゅうぶんに奇跡的な偉業だったとも言えます。
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三国志ライターYASHIROの独り言
こう考えると、「蜀を建国したけど、そのあとがパッとしなかった」などと言われがちな劉備の経歴についても、見方が変わってくるのではないでしょうか。蜀建国だけでも、実にきわどい、「あの時にチャンスが来なければもうダメだった」くらいの大快挙だったのです。もう少し、「蜀を建国しただけでも、奇蹟的な快挙で、それだけで劉備軍は凄いのだ、偉いのだ!」と言ってあげてもよいのではないでしょうか?
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