人は1人では生きていけません。馬や牛が生まれてすぐに立って歩けるのに、人は1歳くらいまでそれができません。1人で立って歩けるようになるまで、母親をはじめとする多くの人に助けられながら成長していきます。ようやく1人で歩けるようになっても、十数年、誰かと一緒に遊んだり学んだりしなければ一人前になれません。独り立ちできたと思っても、社会的動物である人は、生きている限り何らかの形で人とつながり続けます。
そのため、どんな人にも死んだら必ずと言っていいほど悲しんでくれる人がいるものです。孫策が殺したある人物にも、復讐に臨むほど死を悼んでくれる人がいたのでした。
孫策、袁術から独立
父・孫堅が犬死ともいえる無念の死を遂げ、その軍勢は袁術軍に吸収されてしまいました。19歳という若さで孫家復興の使命を帯びた孫策は、袁術の元で臥薪嘗胆の日々を送ります。劉繇を破って曲阿を手に入れたとき、孫策の雌伏の時はようやく終わりを告げました。続いて、呉郡、会稽郡を強襲。呉郡太守・許貢も会稽郡太守・王朗も蹴散らし、江東支配を宣言したのです。
前途洋々。孫策の野心は一気に燃え上がりました。
知らぬ間に敵を作りまくっていた孫策
破竹の勢いで江東平定を遂げた孫策でしたが、いきなり乗り込んできた若造である孫策を江東の人々は面白くなく思っていました。徳力ではなく武力によって平定した場合、恨みも一緒に買ってしまうのは仕方のないこと。そのため、まずは人々の心を得るために温情ある政策をしくなどの根気強い努力が必要とされるのですが、気の短い孫策にはそんな器用な真似はできなかったようです。
反抗的な態度の豪族にも、謎の宗教を信仰する勢力にも武力行使。力尽くで自分に従うように誓わせ、それでも従わない場合は死を与えたのです。
孫策の狼藉に立ち上がった許貢
強引なやり方で人々を抑えつけ、無理矢理にでも服従させる孫策のやりかたに元呉郡太守・許貢は腹を据えかねていました。
「孫策はかつて高祖・劉邦と争った項羽のようです。どうか孫策を手厚くもてなし、中央で使ってやってください。このまま野放しにしておけば、天下の禍となるでしょう。」許貢は正史『三国志』では献帝へ、『三国志演義』では曹操へこの密書を送ろうとします。ところが運悪く、この密書の存在が孫策にバレてしまいます。
孫策はこれに大いに腹を立て、許貢に面会を求めて詰問します。ところが、許貢は知らんぷり。許貢の態度にますます怒りを覚えた孫策は、許貢を粛清してしまいました。
ますます勢いづく孫策
嫌な奴は殺してでも排除。最早自分を止められる者はいないと言わんばかりにぐんぐん勢いづく小覇王・孫策。そんな孫策、当然曹操の目にもとまります。曹操は孫策を手懐けておこうと自分の姪子を孫策の弟・孫匡に嫁がせ、さらに孫策の姪子を息子・曹彰の嫁に迎えて姻戚関係を結びました。
同盟を結んだということですっかり安心しきっていた曹操。ところが、孫策の方は虎視眈々と曹操の本拠地・許都を奪う機会を窺っていたのでした。自分は江東に留まっているような器ではないと考えるようになっていたのですね。
許貢の死に奮起した食客
曹操とも同盟を結び、孫策がいよいよ天下を取りに動き出した頃、しくしくとすすり泣く者がいました。
それは、許貢の息子や許貢に囲われていた食客たちでした。何の落ち度も無いのに突然現れた孫策に呉郡を分捕られた挙句、江東を荒らしまわる孫策を止めようと義憤にかられた末に殺されてしまった許貢の無念を想うと、後から後から涙が溢れ出てくるのでした。
ところが、その食客たちはただ泣き暮らしているばかりのその辺の食客とは一味違ったのです。彼らは所謂ヤクザ者でした。彼らの許貢を失った悲しみが孫策への憎しみに変わるのにはそれほど時間を要しませんでした。義に厚い彼らは、孫策への復讐を誓います。
刺客の手にかかり犬死
曹操は袁紹にかかりきりで、許都を空けることが多くなってきました。孫策はいよいよ許都奪取を実行に移そうと考え始めます。
時代の寵児気取りでますます気が大きくなっていた孫策は、ある日、1人で長江のほとりをぶらついていました。ところが、突然3人の男に取り囲まれます。あの許貢の食客3人組です。
武に長けた孫策は見事に3人を切り倒しますが、頬に矢を受けてしまいます。それほど致命的な傷ではありませんでしたが、青黒く膿んだ傷痕を見て孫策の気は一気に萎んでしまいました。
「こんな顔では天下を治めることも叶わない!」と叫んだところ、傷口から大量の血を噴き出したという話もありますが、おそらく傷口に悪い菌が入ってしまったのでしょう。
孫策は26歳という若さで亡くなってしまいました。少しでも人心を得るような努力をしていれば、孫策ももう少し長生きできたのかもしれませんね。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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