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太史慈の生涯!群雄としての活躍と[その後]

2024年7月28日


太史慈

 

太史慈(たいしじ)は、正史にも孫策(そんさく)との一騎打ちの記録が残る勇敢(ゆうかん)な武将です。しかし、同時に太史慈こそは孫策の配下になる以前に劉繇(りゅうよう)の配下として戦い、さらに劉繇の死後には、丹陽太守を自称して短い期間ながら群雄(ぐんゆう)として活躍した人物でもあるのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉繇と共に逃げる事を止め丹陽太守として独立

太史慈

 

劉繇が揚州刺史(ようしゅう・しし)の頃、太史慈は同郷の伝手(つて)でこれに仕えていましたが、まだ無名であり、非常に過激な行動を取る人だったので大軍を任されず、ただ、偵察の任務だけを与えられていました。この頃お忍び偵察中の孫策と遭遇し、お互いがお互いを知らない間に一騎打ちになりその兜を奪った事が呉志、太史慈伝に記録されているのです。

 

太史慈と孫策

 

195年、劉繇は袁術(えんじゅつ)の支援を受けた孫策に敗れ去り、太史慈は劉繇と供に豫章(よしょう)に走ろうとしますが、途中で劉繇を見捨て一人蕪湖(むこ)に逃れ、山中に入り丹楊太守を称したのです。

 

 

 

孫策の手が回らない涇県以西の六県を掌握

太史慈

 

太史慈の単独行動は自暴自棄ではありませんでした。劉繇を追い払った孫策ですが、まだ自軍が小さく宣城(せんじょう)の東を平定したものの涇県(けいけん)以西の六県には、手が付けられず真空状態になっていたのです。このような場合、在来勢力が真空地帯を吸収するか、真空地帯から新しい群雄が登場するかのいずれかの状況が出現します。太史慈は、ここに至って群雄にならんと決意して涇県に留まり、屯府を置いて周辺の山越族を吸収する事に成功しました。すべては計算づくであり、太史慈に天下を狙う野心があった証拠です。

 

孫策に投降したのは何故か?

孫策

 

しかし、太史慈の群雄時代は、僅かな期間で終結します。それは、孫策が自ら涇県を攻めたからです。太史慈の中では孫策がやってくるのは、まだ先という思惑があり、結構呑気に構えてきたのかも知れません。ところが、孫策という人は、195年から200年に刺客の手に倒れるまで自分を急き立てるように延々と戦争をしていた人物で、想定外の速さで涇県に攻め込んできたので時機を誤ったと考えた太史慈は独立を諦めたのでしょう。

 

正史では孫策の攻略によって、手捕りにされたような描写ですが実際はそうではないでしょう。前もって、孫策と太史慈の間で文書のやり取りがあり、その上での降伏と考えた方が自然です。

 

関羽

 

まあ、その時に当時の降伏慣例として、太史慈が自分を後手に縛り棺桶(かんおけ)を引いて城外に出てきて、孫策が「何をなされる!」とあたふたと進み出て太史慈の縄を解き、礼を尽くして迎えたという程度のクサい芝居はありそれが後世に脚色されて、敵味方を超えて信義で結ばれる麗しき青年主従(しゅじゅう)という図式になったと考えるのがリアルではないでしょうか?

 

 

太史慈を引き入れた孫策のメリット

孫策

 

実は太史慈は孫策にとっては、気の抜けない人物でした。そもそも、太史慈は最初は孔融(こうゆう)、次には劉繇に従った反袁術の人材であり袁術の子飼いから出発した孫策とは正反対の人です。また、太史慈は忠義の人とは言いながら、一度は劉繇に従いダメと思えばあっさり見捨てる群雄に共通するヤマっ気も持っていました。

 

太史慈

 

本来なら、配下になど容れたくないのが本音でしょうが、太史慈の配下には、精強な山越族が控えている上に、劉繇亡き後に行き場を失った劉繇の軍勢を引っ張ってくるという手柄もあります。そこで迷った結果、勢力増強を優先し毒を飲んで劇薬とするつもりで「太史慈に叛かれりゃ、俺はそこまでの男という事よ・・」と能天気で奔放(ほんぽう)な性格のままに太史慈を配下に組み入れたのでしょう。

 

孫策

 

 

こういう破れかぶれは、孫策の美点であり欠点でした。しかし、だからこそ短期間で江東を征服できたのでしょう。後を襲った孫権(そんけん)は疑り深く他所者を信じない典型的守成の人で孫策のこういう性質がまるでありません。

 

 

独立性の高い孫呉の将

孫権

 

孫策の配下になった太史慈は、海昬(かいびん)建昌(けんしょう)の左右六県を分け建昌郡として、太史慈を建昌都尉として海昬で治めさせています。孫呉の場合は、蜀や魏に比べて支配下の将軍の自由裁量が強い、豪族連合の政治体制が濃厚ですから、孫策は建昌郡をほとんど太史慈に任せてしまっていたのでしょう。かつて、太史慈が独立していた時の涇県以西の領地も六県、現在、建昌都尉として治めている県も六県ですから、領地替えのような意図もあったのではないでしょうか?太史慈はここで、劉表(りゅうひょう)の従子であり豪傑であった劉磐(りゅうばん)を徹底撃破して、二度と攻めてこなくする手柄を立てました。

 

 

孫策の死後、孫権に疎まれ病死する太史慈

孫権と周瑜

 

しかし、太史慈の活躍は、孫策の死と同時にぷっつりと消えます。孫権は太史慈が劉磐を抑制できた事から、引き続き南方を治めよと命じ大苦戦だった黄祖(こうそ)討伐にも従軍させようとはしませんでした。孫策と親しかった周瑜(しゅうゆ)も同じなんですが、孫策政権で力があった人間への孫権の態度は「飼殺し」です。だから太史慈のような猛獣は、最初から扱わないと決め土地に張り付け中央に呼びもしないで放置し死去を待っていたのです。

 

周瑜と魯粛

 

 

周瑜は魯粛(ろしゅく)と図り、赤壁の戦いで勝利して孫権体制に食い込む事に成功しますが太史慈はその前に病死し生涯を閉じています。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso

 

太史慈の列伝は、呉志四で劉繇、士燮(しきょう)と一緒にまとめられています。三国志に詳しい人は分かると思いますが、このようなグループ分けは偶然ではなく大体、似たような性質の人々は1つの伝で括られる不文律があります。

 

例えば魏志の八は公孫瓚(こうそんさん)陶謙(とうけん)張楊(ちょうよう)公孫度(こうそんど) (公孫淵(こうそんえん))、張燕(ちょうえん)張繡(ちょうしゅう)張魯(ちょうろ)でいずれも地方政権を立て独立していた群雄の伝です。つまり、太史慈は孫呉の将ではなく、地方政権を立てた他所者としてカテゴリの中に入っているのです。太史慈は史書の扱いでは、孫呉の将ではなく親孫呉派の小群雄として乱世を駆け抜けた事になりますね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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