今回ご紹介したいのは、魏の武将……とは言えないけれども、魏という国から見たら
「この人がいなければ我が国はなかった」
そう思う……ほどに、重要な人物でもあります。ただ三国志演義ではこの鮑信が殆ど触れられていないこと、更に序盤も序盤で退場してしまう人物であることも相まって、中々知られていない人物でもあります。そこで今回は「鮑信とはどんな人?」これをテーマにお話ししていきたいと思います。
この記事の目次
鮑信の基本情報:鮑信の読み方と名前の意味、出身地と生きた時代
まずはその名前の読み方とその意味など、基本的な鮑信の情報から。鮑信は「ほうしん」と読みます。鮑家は前漢の司隷校尉、鮑宣より続く系譜であり、この鮑宣の八世の孫となるのが鮑信です。鮑宣は貧しいながら学問に通じてよく学んだ人物であり、その妻は貧しい夫を支えた良妻として烈女伝にも名前を残すほど。
また名の「信」は儒教における五常の徳、信から取られたとするならば、誠実であり、友情に篤い人物ということになるでしょう……こちらはまた後程。鮑信自身は兗州泰山郡東平陽県の人物であり、東漢末期の混乱の時代に生を受けた人物です。次に鮑信が仕えていた勢力、その勢力での役割などをお話していきましょう。
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鮑信がどの勢力に仕えていたか・その立ち位置、功績と活躍と役割
鮑信は霊帝の時代に何進の招聘を受け騎都尉となりました。
そして何進と共に十常侍と対立の道を選ぶも、何進の暗殺により計画は頓挫、都に軍勢を率いて入ったのは董卓です。
すでに董卓が専横を目論んでいることを予見した鮑信は袁紹に董卓との戦いを進言するも、袁紹はこれには応じず。
しかし後に反董卓連合が結成された際にはこれに参加、鮑信は袁紹と曹操から行破虜将軍に推挙、上表されました。若い頃から智謀に富んでいると謳われていた鮑信、ここで嘗ての主である何進将軍の仇を討たんとしていたのでしょうが……その話は次回に。
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鮑信と曹操の出会い、二人の知り合ったきっかけと、曹操を見出した先見の明
鮑信は劉岱や張邈らと共に酸棗に駐屯することになります。しかし反董卓連合として共に戦うべき彼らは宴を開いてはまともに戦おうとせず……これに怒りを感じたのか、訴え出てきたのが曹操です。
曹操の要請に応じて共に戦うことになる鮑信、新しい同胞を得た瞬間ですね。残念ながらこの際には敵に敗北し、食糧不足により撤退をしていますが、二人の次の共闘の相手は袁紹。
冀州を得て勢力を強大化していく袁紹に危機を感じた鮑信は、曹操に黄河の南の平定をし、力を付けて対抗する時を待とうと進言しました。
曹操はこれを聞き入れ、袁紹と対立していくことになります。そうして鮑信もまた、そんな曹操の下にいることになるのでした。
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曹操と鮑信の信頼関係が伝わる逸話紹介!どうして曹操に加勢したのか?
魏書によると、曹操は東郡太守になると、再び鮑信を済北国の相に推挙したとあります。
この頃には既に鮑信の中では曹操と共に歩いていく方針が固まっていたのか、青州黄巾賊が、陳宮が曹操を兗州牧に推戴するため、兗州の別駕従事や治中従事を説得した際にはその意見に賛同し、曹操を兗州牧に迎えてその後も行動を共にしていっています。
鮑信は何進に仕えていた頃から人望が厚く、兵を募ることを主として行動をすることも多かったので、曹操から見ても大きな支援者となっていたことでしょう。年齢も鮑信の方が三つ上といった所でそこまで離れてもいなく、やんちゃしていた経験もある曹操からしたら、寛大ながらしっかりとした意見をくれる良い兄貴分であったのかも……と想像すると、二人の関係がほほえましいものが見えてきますね。
因みに曹操と二人で黄巾軍の残党討伐の下見に行くなど、信頼関係も強かったものと思われるエピソードもありますが……これが、後の悲劇に繋がります。
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曹操と共に戦った活躍、その指揮能力と最期~鮑信はどのように亡くなったのか~
192年、曹操と共に黄巾軍の残党討伐に向かい、下見に赴いた鮑信。この際に敵の不意打ちにあい、更に軍勢が到着していなかったために白兵戦になるという非常に危険な状態に陥りました。この際に懸命に戦った鮑信は曹操を救出、曹操は敵の包囲を打ち破って脱出できるも、鮑信は助かりませんでした。
曹操は必死で鮑信の遺体を探させるも、その遺体は見つからなかったと言います。そう、鮑信は黄巾残党軍の討伐戦……の、偵察で、曹操を庇って戦死したと言えます。「遺体が見つからなかった」ということから、恐らくは、酷く損壊するほどの激戦の中で命を落としたのではないでしょうか。
経緯はどうあれ、曹操を救出し、逃がした。たった一度きりの戦果ではありますが、曹操にとって、そして後の魏の国にとっても、計り知れないほどの戦果を挙げた……と言えると、筆者は思います。
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鮑信はなぜあまり知られていないのか?何故歴史に埋もれたのか、正史と演義の違い
さて、これほどまでに大きな活躍をした、そして史書に書かれている限りかなりの好人物ではある鮑信ですが、その存在はあまりに知られていません。なぜこうまで歴史に埋もれてしまったのか、そこにはまず正史と演義での、鮑信の扱いの違いです。正史での鮑信の生い立ちや活躍などは今までに語ってきた通りですが、三国志演義では鮑信は無能の極みと言ったような人物にされています。
まず登場は反董卓連合で孫堅を出し抜こうとして失敗して華雄に大敗、弟が死ぬ。更に黄巾残党戦で戦死は同じですが、ここでもまた功績を焦って突出したばかりに戦死と、そもそも戦死の理由まで変更されています。これでは注目も浴びようが筈がないというもの。
またここまで無能にされた理由ですが……個人的にこのエピソード、よりにもよってこの後の苑城での典韋のエピソードと被る……
更にいうとそもそも鮑信がどのような立派な人物かというエピソードが三国志演義には入る余地がないので紹介もできない……もっというと三国志演義の最初も最初のエピソード過ぎて……!!と、これらの要素が絡みに絡まってしまった結果、鮑信が埋もれてしまったと思うのですが、皆さんはどうお考えになりますでしょうか。個人的には三国志演義から入った人にこそ知ってほしい武将ですね、鮑信。
鮑信と曹操や周囲、他の群雄との意外な関係、鮑信はなぜ命を懸ける選択をしたのか
では最後に、曹操だけでなくとある他の武将との鮑信の関係をご紹介しましょう。三国志の序盤で退場してしまう鮑信ですが、ある武将との意外な関係が短いながら正史に記録されています。
その武将は、于禁。実は于禁は鮑信が黄巾の乱の際に道教であったが故、その募られた義勇軍に参加したのがきっかけで、鮑信亡き後は曹操の下に身を寄せるようになったのでした。
繋がりと言えば小さなものですが、于禁と言えばエピソードから分かるようにどうにも生真面目が過ぎて周囲とやや距離を取るような印象を与える人物、その于禁が曹操に仕えるきっかけとなったのが義侠心に富み、人に慕われていた鮑信であった……というと、何だか色々な背景を想像してしまいますね。
また個人的な意見となりますが、筆者は曹操に鮑信が何を見たのか、見出したのかではなく、ただ曹操と友誼を深めた上で、その上で友人を助けようと命を懸けた……そういう方が、鮑信の最期としてはイメージしやすい……と思っています。皆さんは鮑信の生きざまに何を感じたでしょうか。どうにも注目されにくい人物ではありますが、ぜひこの機会に鮑信に思いを馳せてみて下さいね。
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三国志ライター センのひとりごと
鮑信、とにかく短いながらエピソードがとても濃いので、ある意味、三国志演義でなければもっと注目されたのでは……?そう思う人物でもあります。曹操のピンチを救った人はかなり多いのですが、その中でもかなり初期の重要な位置にいる人物ですし、于禁との繋がりなど結構深掘りされると面白い人物だと思うのですよね。
だからこそ知ってほしい、知られてほしい人物、そんな鮑信。皆様どうぞよろしくお願いします。チャポーン。
参考:後漢書武帝紀 魏書
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