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孫瑜とは何者?孫策・孫権を支えた影の功臣の生涯と功績


 

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三国志01 孫瑜

 

皆様は孫瑜という武将をご存知でしょうか。

 

孫堅(37)の自慢の息子たち 孫策(17)、孫権(10)

 

孫堅の弟である、孫静の息子であり、孫策や孫権から見れば従兄弟となる存在です。建安20年に39歳の若さで没するものの、間違いなく孫家の基盤を支え続けた武将の一人と言える人物です。

 

憤死する麋竺(モブ)

 

しかし若くして没したためか、まだまだ知名度的には低いとも言える人物、そこで今回は、孫瑜について少し解説をしたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫瑜の基本情報、孫瑜とは誰か、孫瑜についての概要

三国志01 孫瑜

 

まずは孫瑜の基本情報について。孫瑜、字は仲異、孫堅の弟である孫静の子で、孫策や孫権とは従兄弟になります。因みに孫瑜の生まれ年は177年となっているので、孫権からすると年上の従兄ですね。父親の孫静は兄である孫堅が戦死した後に、息子の孫策の招聘を受け「一族を率いて」、と記されているので、その子である孫瑜も孫策の下にはせ参じた可能性はありますね。

 

呉の勢力を率いる孫策

 

ここで孫策が王朗相手に攻めあぐねるのですが、孫静の進言から突破口を開き、見事会稽の平定に成功します。この事で孫策は孫静を奮武校尉に任じるのですが、孫静自身は故郷に留まることを望んでこれを固辞しました。

 

ほっぺたに矢を受ける孫策

 

孫瑜自身がこの頃にどうしていた、という記述が少ないため時期ははっきりとしませんが、ここから孫策の死までの間には恭儀校尉となり兵士を預かっていたようです。謙虚な人柄も相まって人々に好かれ、後に兄の行動のために失脚するも孫権からは重用され、最終的に204年に丹陽太守に任命されています。

 

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孫瑜とその周囲の人々、家族と関係者、孫策や孫権との関係は?

呉志(呉書)_書類

 

さて、前述したように孫静の子である孫瑜は、孫堅からすると甥に、孫策や孫権からすると従兄弟という立場にありました。また孫瑜にも兄と弟たちがいたのですが、特に注目したいのが兄である孫暠です。

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

この孫暠、200年に孫策が暗殺されると、配下を率いて会稽郡を支配しようとし始めます。

 

三国志のモブ 反乱

 

この反乱は未遂で終わったものの、その後の孫暠がどうなったかは分からず、記録が残されていません。ただ父親である孫静はこれを受けて引退、しかしその子である、そして孫暠の弟であるにも関わらず、孫瑜を孫権は重用し続けたと言います。

 

炎上する城b(モブ)

 

実兄が暗殺されて家骨が揺るがされている中での身内の反乱、ありがちと言えばありがちですが、そんな中でも孫権が信頼していたとなると、孫兄弟と孫瑜との関係はかなり良い関係を築けていたのではないでしょうか。また孫策との関係は記されてはいませんが、実は孫策と最も親密な人物とも孫瑜は良い関係を築けていた逸話がありますので、次に紹介しましょう。

 

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赤壁の戦い

 

 

孫瑜の影響力と業績、呉への貢献

周瑜

 

孫瑜がもう一人、親しくしていた人物とは、皆様もご存知呉のスーパー総司令官、周瑜。彼は特に孫瑜を信頼していたとされているので、恐らく孫策時代からのやり取りがあったのでしょう。その信頼はかなり深く、周瑜伝によると益州を攻め取ったら孫瑜に任せようと考えていたほど。孫権の従兄とは言え重要な地を任せようとしていたのは、人柄か、それともその才能をかっていたのか……ですが、これは実現せず。

 

大船団を率いて呉を攻める王濬(おうしゅん)

 

孫瑜はこの益州攻略において孫権から水軍を率いることを命じられて赴くものの、周瑜自身が途中退席してしまったために、この計画はご破算となったのでした。しかしその後、孫瑜は曹操が攻めてきた際に攻撃に出ようとする孫権をしきりに止めようとするなど、どちらかというと慎重派な面が見えてきます。

 

三国志 孫権に対して忠誠心高すぎな孫瑜

 

後に、孫権は孫瑜を奮威将軍に任命、この際に孫瑜は部下に命じて九江郡、廬江郡に降伏を呼びかけさせ、見事に両軍を降伏させることとなりました。敵を打ち取るような華々しい業績は残されてはいませんが、周瑜が益州を任せようと思ったのは、こういった調略の巧みさや孫権を抑える慎重な面をかっていたのではないかと想像が膨らみますね。

 

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孫権

 

 

孫瑜が三国志に与えた影響とは

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)書類

 

記録が少ない孫瑜ですが、そんな孫瑜の一面が伺い知れるエピソードが一つ残されています。孫瑜が優遇した部下に、馬普という人物がいました。この人物は学問に長けており、孫瑜自身も学問を良く学び、古典を諳んじるほどになったと言います。また、自身だけの学びでは終わらず、部下たちにも学問を学ばせることを奨励したそうです。

 

勉強する呂蒙

 

この辺り、呂蒙に「勉強しなよ!」と言ったまだ若き日の呉王様を思い起こさせ、何だか血のつながりを感じさせるエピソードですね。

 

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呂蒙

 

 

孫瑜の死因は?

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

さて、そんな孫瑜ですが、死因ははっきりとはしていません。ただ215年、39歳で死去でした。年齢を当時から見ても、まだまだこれからという頃でしょう。呉は水地の影響か、どうにも早く亡くなる武将が多いのが惜しい所です。

 

孫皎(そんこう)

 

この際に、孫瑜の軍権の多くは弟の孫皎が引き継ぐこととなりました。また孫瑜には五人の子がいましたが、彼らはみな侯となって、その内の一人である孫曼は将軍にもなりました。生前の孫瑜業績を鑑みてのことかもしれませんね。

 

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二宮の変

 

 

 

孫瑜と三国志の関係、三国志における孫瑜の位置づけと重要性

ポイント解説をするセン様 ポイント

 

孫瑜と銘打っておいてなんですが、少し孫瑜の弟である孫皎についてお話しします。

 

関羽を捕縛する馬忠

 

孫瑜の弟である孫皎は兄の死後、濡須で曹操相手に激戦を繰り広げて防衛したり、呂蒙と共に関羽相手に荊州奪還を繰り広げたりなど、様々な面で活躍をします。荊州平定にかなり貢献した孫皎ですが、その直後に病死してしまうのが兄と同じく惜しい所。

 

諸葛瑾

 

また人柄も良く、諸葛瑾ら名士との交流も盛んで、民衆を慈しむ心を持ち、良く他者に施す人物であったと伝えられています。

 

三国志に出てくる海賊達と甘寧

 

因みに年長の甘寧に身分差を理由に軽く接したために甘寧の気分を害すも、孫権に訓戒を与えられ甘寧に謝罪したことからそれ以降は親しく付き合うなど、呉の重鎮たちとのエピソードも豊富。さて、では孫喩の位置づけとは何か、と考え始めると、三国志という歴史の中ではかなり埋もれがちな人物と言ってしまえる点にあります。

 

周瑜

 

周瑜と同じく、初期の呉を、そして孫権を支えた人物であることに間違いはないのですが、早逝のために当たり前ながら弟である孫皎の方が記録の方は多く残される結果となりました。しかし三国志という舞台での重要性を考えると、決して孫喩は埋もれることのないポイントを持っているのではないか、とも考えられます。最後にもう少しだけ、孫瑜について考えてみましょう。

 

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甘寧

 

 

孫瑜とは何か?その影響力と実績、歴史における役割

三国志を楽しく語るライターセン様

 

孫瑜とは、孫策や孫権の従兄弟であり、周瑜にも見込まれる優秀さを持っており、初期の呉、孫権を支えた人物でもあります。早逝したとはいえ、その影響力、立場は弟である孫皎にも引き継がれ、更にそこからその弟にも引き継がれています。これを遡ってみると、父である孫静の代からのことであることが分かるのですね。

 

そんな孫家は、孫子の末裔とも言われています。孫瑜の一族は、宗家である孫堅の血筋を支え、三国志という大きな歴史の一国になった。列強の一国が貴き血筋であり、その血筋が身内で支えあっていた……これらが、個人的には三国志の中で「呉」、そして孫家、更に孫瑜に求められた役割であり、尚且つ歴史家たちが浪漫を見出してきたのでは、と思いました。そんな孫瑜、惜しむらくは早逝してしまったこと……!

 

……早世した武将が出てくると度々「惜しむらく早逝……!」と呟く存在になってしまう筆者ですが、どうしても残された記録を見ていると、この続きがあったら……と考えてしまうのです。しかし曹操のように、今後何かしらの情報が、孫瑜だけでなくどの武将でも決して出てこないとは言い切れない。不思議なことにいつか来るかもしれない未来に向けて、過去のことを見つめている。三国志に限らず、歴史好きさんはこの不思議な感覚が、好きなのかもしれませんね。

 

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周瑜

 

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

孫瑜ではなく父親の孫静の話で恐縮ですが、最後にちょこっとだけ。三国志演義で、孫堅の劉表への攻撃に孫静は反対するも、孫堅は止まることなく……という場面があります。たったこれだけですが、勇猛果敢な兄と、慎重型の弟、この構図がとても心に残っています。孫瑜と孫皎だとどちらかというと孫皎の方が行動派に見えるので、おそらく兄弟の特性と言ってしまえることなのですが、孫策と孫権にもこの辺りが見えていて意図して描いたことなのかなぁとずっと考えていました。

 

センさんが三国志沼にドボン b

 

最後に三国志演義の話になってしまいましたが、こういう歴史の部分を少し抜き取って創作されていることを見つけると何だか嬉しくなってしまう、そんな小話でした。チャポーン。

 

参考:呉書宗室伝 周瑜伝 呂蒙伝

 

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呉の武将

 

 

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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