さて今回ご紹介しますのは呉の魯粛です。三国志演義と正史三国志ではかなり印象が違ってくる人ですね。何なら正史の記述を見ても「こんな人ほんとにいたの?」と思ってしまう人です……色んな意味で。
ここでは魯粛の死因を見ていくと共に、そんな魯粛についても色々とお話ししたいと思います。知れば納得、魯粛が周瑜の後を引き継げた訳。お話していきましょう。
この記事の目次
魯粛は魯の家に生まれたとんでもない子供だった
さて魯粛、字は子敬。徐州の南方に位置する県にある、魯家に生まれた男の子です。この家は地元でも評判のお金持ちでしたが、魯粛が生まれてすぐ父親が亡くなり、魯粛自身は祖母に育てられていたと言います。
そんな魯粛は若い頃から評判でした。「魯家の子が田畑を売ってまで金を貸したり、若者たちを引き連れて徒党を組んで兵馬の訓練をしている……魯家には気狂いが生まれたようだ」と……割と凄い方向に評判だったんですね、魯粛。
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周瑜との邂逅、後々まで深く繋がる縁
さてそんな魯粛の噂を聞きつけてやってきたのが当時、居巣県長にあった周瑜です。この時に周瑜は資金提供をしてくれないかと要求。さあどう出てくるかと思う周瑜に、魯粛は所持していた二つの倉の内の一つをそっくり渡してしまいました。
この時から周瑜は魯粛の非凡さを認めて親交を深めるようになり、後に袁術に仕えた魯粛は周瑜を頼って孫策に尊重された……と言いますが、孫策時代に特に何らかの活躍はなしです。どちらかというと孫堅の時代になってからが魯粛の輝きターンですね。
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周瑜「逃がさん……お前だけは……」
さて時は流れます。魯粛のお祖母さんが亡くなりました。さて今後をどうするかと思っていた魯粛に、お友達から「鄭宝のとこいくといいよ!」とお便りが来ます。これに納得した魯粛、母親を連れて行こうとしますが、なんと既に母親の身柄は抑えられていました。
折りしも孫策が亡くなり孫権が後を継いだ時、周瑜は魯粛を逃がしたくなかったのです。その後、周瑜の熱心な説得により魯粛は孫権に仕えることとなったのでした。周瑜の賢明さと懸命さが光る場面ですね。
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魯粛は言わずと知れた周瑜の後継者!
周瑜によって推挙された魯粛は、その後はその才覚を発揮していくことになります。特に劉備と結んで曹操、魏に当たるという方針は魯粛のもので、永くこの方針によって呉は進んでいくこととなりました。
そんな魯粛は三国志演義だと何だかんだ上官の周瑜にいびられたり、気弱さを心配されたりする人物ですが、実は周瑜の後継者となり呉の都督となったのが魯粛です。
早くに亡くなった周瑜は、遺言にて「後継は何卒魯粛に」と孫権に言い含めていました。魯粛の非凡さが光る瞬間、そして周瑜との交流が結んだ縁と言えるでしょう。
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魯粛の役職は?実は魯粛の役職って…
ここでちょっと魯粛の役職についてのお話を。周瑜に推挙された魯粛は、孫権の宴に招かれます。孫権の宴に招かれるとかいうパワハラ&アルハラフラグですが、珍しくこの時は酒を控えていたのか孫権は穏やかに魯粛に今後のことを尋ねました。
「まずは曹操が北に手こずっている間にここらを制して、そこから天下を狙っていきましょう!」
この当時、漢王室はまだあります、まだあるのです。さしもの孫権もこれには苦笑い、まだ地元だけでも大変だし頑張って漢王室を助けようね……と返し、これを聞いたのか張昭おじいちゃんから「あんな危ない奴と付き合っちゃいけません!」と激怒されたりするのでした。
そしてここから実は魯粛、母親ともども前と変わらない暮らしができたという孫権の厚遇っぷりを見せるも、実は暫く役職がどこにも出てきません。もしかしたら孫権もこいつヤバい……と思ったのかもしれませんね。
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豪胆な魯粛は46歳で死去、死因は不明
その後も漢王室があるのに何か度々孫権に帝位を望んじゃう魯粛ですが、都督になると劉備と孫権の仲立ちのためにその身を砕きます。
しかし魯粛は決してただ劉備たちと仲良くしていた、という訳ではありません。
有名なのが関羽との「単刀赴会」ですね。この関羽との対談で魯粛は一歩も怯むことなく関羽相手に対峙、最終的に長沙、桂陽の領有権を孫権側に認めさせました。関羽相手に「ガチ」で引かなかった、その豪胆さは賞賛すべきものであるでしょう。
ですがこの二年後、魯粛は46歳で死去。呉の都督あるあるな早逝です。死因について正史では触れられてはいませんが、劉備との外交を一手に引き受けていた身であることを踏まえると、豪胆な性格ではあってもやはりそれなりに負担も大きく、そのための早逝ではないかと思われます。
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魯粛 ~恐らく最も曹操の天下を阻害した男~
さて魯粛の死後、呉も蜀も魏ももちろん色々とあるのですが。注目するべきはこの三年後、曹操が亡くなることではないでしょうか。
曹操は三国の統一を成し遂げることはできませんでした。
そしてどうして成し遂げることができなかったかというと、やはり大きな点として孫権と劉備、呉と蜀が何だかんだ手を結んだから、ということが挙げられるでしょう。
そしてその二つが手を組んで曹操と戦うという道を呉で説いたのは魯粛。ある種、劉備や関羽よりもよほど曹操の天下の道を阻んだのは魯粛とも言えるでしょう。それに気付いたからこそ、その死後に帝位に付いた孫権は、その際に魯粛のことを思い出したのではないかと思います。
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三国志ライター センのひとりごと
因みに孫権が即位したのは229年。この時に孫権は「魯粛にはこうなる事が分かっていたのだ」と言ったと言います。
そしてそれよりも遥か以前の赤壁の戦いの後、魯粛を迎えて感謝した孫権に魯粛は「いつか帝位について私を迎えに来てくださいネ!」と言って周囲を驚かせていたと言います。……が、それはそれとしてまだ漢王室が存在しているのにこの豪放磊落というか不遜不敬というかなギリギリな発言を繰り返す人物ですね魯粛は。
そんな魯粛の最大の謎は、この魯粛が苦労人気弱なお人好しにしてしまった三国志演義。やっぱりやたらめったら不遜な発言をする魯粛ってフィクションでも「これはちょっと……」と思われたのでしょうか?
とか少し笑ってしまう筆者でした。どぼん。
参考文献:呉書魯粛伝 周瑜伝
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