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蜀滅亡・劉禅は本当に暗君だったの?

2015年1月15日


 

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劉禅

 

劉備玄徳の子であり、蜀の二代目の皇帝でもある劉禅(りゅうぜん)は、

暗君であったとされています。

その幼名の阿斗(あと)を取って「扶不起的阿斗」

(救いようのない阿斗)ということわざが残されているほどです。

 

はてなマークな劉備と袁術

 

しかし、本当に劉禅はそこまで貶められなければならないほどの暗君だったのでしょうか?

諸葛孔明亡き後、彼の置かれた境遇を見直してみると別の一面が見えてきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「救いようのない阿斗」と言われるようになったきっかけ。

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

蜀滅亡の後、魏に投降していた劉禅はその身柄を洛陽へと移されました。

彼を宴会に招いた魏の将軍、司馬昭が「蜀が懐かしくはないですか?」と尋ねると、

 

 

「ここは楽しい。蜀のことなど思い出しもしない」と笑って答え、

周囲を唖然とさせたと言われています。

 

見かねた劉禅の家臣が

 

劉禅

 

「あのような質問には『先祖の墳墓もある西の国

(注:蜀は洛陽から見て西にあります)を思い悲しまない日はありません』とお答えください」

と諌めると、司馬昭は同じ質問を繰り返しました。

 

劉禅は家臣に言われた通りの答えを返し、周囲はその発言に大笑いをしたということです。

 

司馬昭はそんな劉禅の様子を見て、

「こんな愚鈍な男が君主だったのでは、たとえ孔明が存命していたとしても、

蜀は滅亡を免れ得なかっただろう」と言う感想を残しています。

 

この逸話から生まれたのが「救いようのない阿斗」ということわざでした。

 

圧倒的に不利な状況にあった蜀

孔明と司馬懿

 

劉禅が蜀を統治していた時代、魏と呉、そして蜀の国力の比は、

およそ6:3:1であったと言われています。

蜀一国ではどうあがいても魏を打ち破ることは愚か、対抗することすら困難な状況でした。

 

祁山、街亭

 

蜀は現在の四川省に当たる土地にあり、

険しい山地に囲まれたその地勢はまさに天然の要害、国を守るにはうってつけです。

しかも、蜀には品質の良い銅を産出する鉱山がありました。

 

貨幣を量産してハイパーインフレを起こす董卓

 

董卓の政策によって粗悪な貨幣が広まって貨幣経済が破綻した後、各国はその回復に努めましたが、

魏では貨幣の信用価値が回復せず、経済は物々交換主流で行われていたと言います。

対して蜀では良質の貨幣が鋳造され、比較的安定した貨幣経済が成立していました。

 

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蜀の大きな問題:人

泣く民027

 

しかし、同時に蜀は大きな問題をいくつも抱えていました。

守るに易い地勢は、裏返せば攻めに出ることも困難であると言えます。

 

二刀流の劉備

 

孔明の策に従った劉備が、あくまで漢朝の復興をその理念に掲げていた以上、

蜀は魏を討つことを至上命題とせざるを得ませんが、

蜀はそれを為すには適当な地とはいえません。

 

劉邦時代の農民

 

なにより深刻であったのは『人』の問題です。

険しい山地を抱える蜀には、田畑を作るための肥沃な土壌に欠けており、

それは人口の圧倒的な差として現れています。

 

また、宮廷が派閥の対立の場になっていたことも重大な問題でした。

 

三国志の主人公の劉備

 

劉備は蜀の地から遠く離れた徐州で挙兵しています。

その後荊州を経て蜀に入った劉備の宮廷には、

挙兵から付き従って来た徐州閥、荊州から加わった荊州閥、

そして元々蜀の地=益州に根を張っていた益州閥の三派が存在していたのです。

 

徐州閥の者にとって、他の派閥の者は新参者に過ぎませんし、

古来益州に根付いていた益州閥から見れば、他の者はよそ者に過ぎません。

 

圧倒的な人口差、そして一枚岩になりえない宮廷の状勢……

それは蜀が魏に対峙するためには決定的に不利な条件を作り出していたと言えるでしょう。

 

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破綻した『天下三分の計』

孔明バージョン 三国志 軍師

 

諸葛孔明が劉備に『天下三分の計』を提示した時、

これを成立させる為に絶対必要な前提条件がありました。

 

庶民、村人の家

 

それは荊州と益州の二州を支配下に置くというものです。

荊州は益州と比べて肥沃な土地に恵まれ、人口も圧倒的に多く、

さらに優良な鉱物資源を産出する鉱山をその領内にかかえていました。

 

道具を輸送する民人

 

更に、荊州は揚子江を挟んだ河北から河南への交通の要衝にあたり、

蜀から河北の魏へ進行するには絶対に押さえてなければならない、軍事上の要路でもあったのです。

 

諸葛孔明を自分のもとに入れたくて堪らない劉備

 

劉備は孔明の策に従い、まず荊州を支配下に置いた後益州に侵攻、

両州を押さえて天下三分の計は成ったかに思われました。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

しかしその後、荊州を任されていた関羽は魏と呉の連合軍との戦いで破れてしまいます。

関羽は敗死し、蜀は荊州を失います。孔明の天下三分の計はこの時点で破綻してしまいました。

 

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「白い糸は染められるままに何色にも変ずる」

董允 劉禅

 

劉禅は配下の言に良く従う君主でした。

孔明存命の頃はその言葉に従い、彼が病没後も、蔣琬や費褘、

董允といった有能な配下に支えられ、国政を維持していました。

 

劉禅に気に入られる黄皓

 

劉禅は進んで善政を敷くことはありませんでしたが、

後に暴君と化した呉の孫皓のように進んで悪政を行うこともなかったのです。

劉禅は主君としての積極性には欠けてはいましたが、

臣下の言葉に耳を傾けることのできる君主でした。

 

黄皓

 

しかし、有能な臣下を引退や病死で次々と失い、

宦官の黄皓が宮中の実権を握るようになると、国政は乱れ始めます。

この時点で、黄皓が国政を壟断することを止めることができる人材は、もはや蜀にはいませんでした。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

また、孔明の意志を継いだ将軍の姜維は積極的に北伐を行っていましたが、

この事が国力を疲弊させる元凶ともなったのです。

 

降伏する劉禅

 

結局、劉禅が魏軍に投降したのも、臣下の勧めに従った結果でした。

正史三国志を編さんした陳寿は劉禅を「白い糸は染められるままにどのような色にでも染められる」、

すなわち、臣下次第で良い君主にも悪い君主にもなる人物と評しています。

 

魏のマイナー武将列伝

 

40年間在位した皇帝

劉禅

 

劉禅の皇帝としての在位期間は実に40年に及びます。

これは同時代に皇帝に即位した者達の中で、最も長い在位期間に当たります。

 

劉禅が在位していた時代、蜀では謀反や反乱も起こらず、彼は国が滅びるまで、

その地位を全うしたのでした。

 

劉禅

 

彼が本当の暗君なら、もっと早く皇帝の座を追われていたのではないでしょうか。

 

劉禅が名君であったのかと問われるなら、そうではないと答えざるをえません。

 

劉禅に降伏を勧める譙周(しょうしゅう)

 

確かに彼は凡庸で君主としての自らの意志を持たず、

臣下の言に振り回されるだけの人物であったかもしれません。

しかし、安定した長期王朝の世継ぎとして、十分に有能な臣下に恵まれていれば、

おそらく暗君と呼ばれるような運命をたどることはなかったはずです。

 

君たちはどう生きるか?劉禅

 

亡き先君の遺志に劉禅が大きなプレッシャーを抱いていたことは容易に想像することができます。

その事を念頭に置いた上で、先に紹介した司馬昭との会話を思い出すとき、

そこにはまた違った意味が隠されているような気がしてなりません。

 

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魏の滅亡を目にした劉禅

劉禅

 

劉禅に対する後世の評価が厳しいのは、劉備や孔明との対比のためと考えるべきではないでしょうか。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

三国志演義が漢民族にとってのプロパガンダ的性質を持った読み物であった以上、劉備や孔明が英雄視されたその反動として、彼らの遺志を全うし得ず、蜀を滅亡させた劉禅には、必要以上に厳しい評価が下されていると見ることができるでしょう。

 

三国志を統一した司馬炎

 

司馬炎によって皇位が簒奪されて晋が成立した時、劉禅はまだ存命していました。

 

劉備が、そして孔明が打倒しようと志し、結局果たし得なかった、

その強大なる敵手であった魏が、

内部崩壊で滅んでいったその様を目の当たりにした劉禅の胸中には、

いかなる思いが去来していたのでしょうか?

 

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