長坂(ちょうはん)の戦いは、西暦208年に行われた赤壁の前哨戦のような戦いです。
三国志演義においては派手な赤壁大戦も、史実では素っ気なく記録され、
それ以前の長坂の戦いよりも文字数が少ない程です。
では、長坂の戦いの経緯はどういうものであったのか?
はじさん特製、手作り地図を使用しながら解説してみようと思います。
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この記事の目次
曹操軍、15万の大軍で南下を開始
前年に、袁紹(えんしょう)の息子である袁尚(えんしょう)、袁熈(えんき)を
匿っていた烏桓(うかん)を撃破して北方の憂いを除いた曹操(そうそう)は
荊州を切り取るべく15万人の兵力で南下を開始します。
どこから、どの程度の軍勢が出たのか不明なので、全て鄴(ぎょう)にしていますが、
現実には各地の拠点から兵力を抽出して15万にしたのだと思われます。
さて、鄴から襄陽までの距離ですが、グーグル先生で調べると、
589キロもありました。
15万の大軍が移動するには補給部隊が無いという事はあり得ないので
動きは遅かった事でしょう。
補給部隊の1日の移動速度を考えると、曹操軍は襄陽までは70日程
掛ったのではないかと推測されます。
史実では赤壁で疫病が大流行し、船を焼き払い北へ引き揚げた曹操ですが、
その背景には、このような強行軍で疲労した兵力の問題もあったでしょう。
ちんたら行軍は劉琮が無条件降伏すると踏んでの行動
曹操軍の南下に、劉琮(りゅうそう)政権を欺くような策略があった様子はありません。
そこにはつまり、大軍を南下させれば荊州は降るという目算があったのでしょう。
当初、劉表(りゅうひょう)の跡を継いだ劉琮には徹底抗戦の構えがあったようですが、
重臣にして、妻の伯父である蔡瑁(さいぼう)等の説得によりこれを撤回しています。
蔡瑁は実は昔からの曹操の知り合いであり、劉表が危ないという辺りから、
曹操とはコンタクトを取っていたようです。
降伏後の蔡瑁は、列侯にまで昇進するなど敗軍の将とは思えない程に
厚遇されている事から、曹操が荊州に入るまでに話をつけるように、
言い含められていたのかも知れません。
わざとか?樊城にいながら曹操軍南下の事実を知らされない劉備
一方で、曹操が荊州に入れば、これまでのいきさつから命はないであろう
樊城の劉備には、荊州の首都、襄陽(じょうよう)は目と鼻の先であるにも関わらず、
劉琮降伏の情報は知らされませんでした。
ようやく劉備が、何かがオカシイと気がついたのは曹操軍が
宛(新野説もあり)に到着したという情報を聞いた時だったようです。
さあ、大変な事になりました、樊(はん)城を拠点にしていた劉備は、
ここで大慌てで兵を纏めて逃げるという事になります。
ここで分るのは劉琮政権、というより蔡瑁政権は意図的に劉備に、
曹操へ降伏するという情報を伝えなかったという事です。
伝えれば逆切れした劉備が襄陽を奪おうと画策するかも知れませんし、
そこまでいかなくても妨害工作を考えるでしょう。
もう少し深読みをするなら、そのままとぼけておいて、
あわよくば曹操に劉備を捕まえさせる蔡瑁の策だったかもしれません。
しかし、以前は僅かな情報からでも危険を察知した劉備が
無情報とはいえ曹操がここまで接近するまで気がつかないとは・・
太股に肉がついている以上に、かなり平和ボケしていたのかもです。
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大量の避難民と共に、劉備江陵を目指して敗走
劉備は樊城から、軍需物資が山積された江陵城に退却を開始します。
安全策を取り、関羽(かんう)と孔明(こうめい)には船で江陵を目指させ、
自分は陸路を江陵に向かうとして軍を二手に分けています。
その途中で、襄陽を通過した時に劉琮に呼びかけたが劉琮は恐れて
出て来なかったとされています。
まあ、出て来ないでしょう、劉備は尻尾切りされた敗軍の将、、
どうなろうが知らないというのが劉琮の本音だからです。
ここで孔明は、襄陽を奪い曹操に対抗すべしと進言、劉備は
「劉表殿には世話になったから出来ない」と仁君ぶっていますが、
そんな実力があれば、劉備の性格なら荊州を乗っ取っている筈で、
よるべなき客将の立場に甘えるわけはありません。
事実の劉備は、全くの敗残兵状態、高邁な事など言える状態ではなく、
ひたすらに江陵を目指して落ちるのが精一杯だった筈です。
発生した大量の避難民に巻き込まれ、曹操に追いつかれる
ここで、事態に気付いた荊州の民には避難民が発生します。
先主伝では、劉備を慕った人々が付いてきたとされていますが、
劉琮の曹操への無条件降伏を何ともできない無力な劉備に、
誰が付いてくるというのか?個人的に非常に疑問を持ちます。
事実は、曹操の侵略に徐州虐殺の悪夢を思い出した人が大半でしょう。
避難民は数十万、劉備軍は数千、逃げる方向は同じなので、
たちまち難民に飲み込まれ身動きは取れなくなったでしょう。
仁君劉備の、「ついてくる民を見捨てるにしのびない」という
美しいエピソードは、元々は、、
「くそー避難民が多くて、先に進めないぜ―」だったのを
180度ひっくり返して綺麗にしただけだと思います。
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曹操は補給部隊を置いて虎豹騎5000で劉備を撃破
曹操は、劉備が軍需物資を満載した江陵に入る事を恐れ、
新野からは補給部隊を捨てて、襄陽に急行して占領します。
そして、劉備撃破を最優先して、虎豹騎5000を選抜して、
曹純(そうじゅん)、文聘(ぶんぺい)と共に、逃げた劉備を追い掛け
当陽の長坂で追いつきこれを散々に撃破しました。
ここで劉備はロケットが予備タンクを切り離すように妻子を切り離し
旗本数十騎だけで、東に向かって敗走します。
その劉備一行の最後尾に張飛(ちょうひ)がついて追ってくる虎豹騎を
少数で食いとめ橋を斬り落として時間稼ぎをした話は史実です。
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漢津で劉備は南下する関羽、孔明、劉琦と合流
すでに曹操に江陵を抑えられ、「どうすんべえ」と思っていた劉備ですが、
河路を採用して南下していた関羽や孔明と漢津(かんしん)で合流します。
その一団には、劉表の長男、劉琦(りゅうき)も含まれていました。
江夏城を持つ劉琦は、ひとまず夏口で戦線を立て直す事を進言し、
他にどうする事も出来ない劉備は、勧められるままに、
船で夏口に退却していくのです。
孔明は、この夏口から魯粛と共に長江を遡上して呉の都、
建業に出向く事になります。
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三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか、ビジュアルで見ると、曹操がいきなり樊城と
目と鼻の先に出現して大慌てで逃げだす劉備の様子が見えるようですね。
関羽や孔明が漢水から南下して河伝いに江陵を目指したのも分りますし
最終的に夏口まで逃げた劉備が、孫権(そんけん)を頼りにしているという、
心の動きまで見えてくる感じがしませんか?
本日も三国志の話題をご馳走様・・
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