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またまた発見!劉備の黒歴史、なんと劉禅には生き別れの兄がいた?

2016年12月11日


 

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劉備 黒歴史

 

調べれば調べる程、黒歴史が出てくる男、劉備玄徳(りゅうびげんとく)

そんな劉備の履歴に新たに黒歴史になりそうな事実が浮かび上がってきました。

それは、西暦200年、劉備が曹操(そうそう)に攻められて妻子を捨てた際に、

生き別れになった子供がいたというものです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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その話は、魏略に登場する・・

劉禅

 

劉禅(りゅうぜん)の異母兄にあたるであろう劉備の生き別れの子供の話は

三国時代に生きた魚豢(ぎょけん)が書いた魏略(ぎりゃく)に登場します。

 

劉備 黒歴史

 

それによると、西暦200年、曹操暗殺計画に加担した事が露見した劉備は、

袁紹(えんしょう)を頼ろうとした袁術(えんじゅつ)を撃退した後、

「このまま帰れば殺される」とばかりに、何も知らない同僚の朱霊(しゅれい)と別れ、

徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺して徐州を陥れて自身は小沛に駐屯し、

関羽(かんう)を下邳に置いて曹操に反旗を翻しました。

 

盗人猛々しいですね、こういうのを逆切れと言うのでしょう・・

曹操と劉備

 

しかし、劉備と結んでいた北の袁紹(えんしょう)は動きが鈍く、

劉備は善戦しますが、曹操の本隊に攻められ勝てず、再び、縻(び)夫人と

子供を捨てて袁紹の下へ奔り、後には荊州に逃げ去りました。

 

劉備の子は、この時数歳でしたが父に棄てられ、避難民に紛れて、

そのまま漢中に入り、身寄りが無いので奴隷として人に売られます。

 

実は関羽は劉備の家族を守っていたのではない・・

関羽

 

「ちょっと待って!関羽は劉備の妻子を守って曹操に降ったのでは?」

 

そう疑問に思いますよね?でも、関羽が劉備の妻子を保護して

うんぬんというのは三国志演義だけにしかありません。

蜀書、先主伝にあるのは、曹操が劉備の妻子を捕虜にしたというだけです。

以後、その妻子が返還されたという記述がないという事は、

劉備と縻夫人とその子は、それっきりになったという事でしょう。

当時のならいからいけば、縻夫人は曹操の妾になったか

家臣に戦利品として与えられたのではないでしょうか?

 

そして、縻夫人は捕えられても、何名かいた子の幾人かは、

そのまま行方不明という事もあり得なくはありません。

 

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劉備の妾、甘皇后の記録にとんでもない事が・・

劉備

 

一方で蜀志四 二主妃子傳(にしゅきひでん)の甘(かん)皇后の記録には、

劉備はしばしば、嫡室を失ったので甘夫人が嫡室の仕事を代行していたとあります。

そう、劉備はしばしば嫡室(正妻)を失っていたのです。

 

つまり、劉備が捨てたのは縻夫人だけではなく、

それ以前にも何名か正妻を捨てたのかも知れません。

その正妻に子供がいれば、或いは、戦乱の中を逃げ延び、

劉禅の異母兄弟になった可能性もあるのです。

 

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魏略では、生き別れの子を劉禅としている

裴松之

 

実は、魏略における劉備の生き別れの子は劉禅という事になっています。

それに対しては、裴松之(はいしょうし)も、生まれた年が合わず

あり得ないとしていますし、実際に、劉禅は西暦207年生まれであり、

生母も甘夫人で、西暦200年には影も形もないので、

魏略の言う劉備の生き別れの子とは劉禅ではありません。

 

しかし、魏略の、この話が全てデタラメかというとそうとも言えません。

実際に幼少期に漢中に逃れた劉備の子がいて、それが劉禅の話と

ダブり混同したかも知れないからです。

 

この後の記述では、さらにその疑いが濃厚になります。

 

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扶風の人の劉括に劉備の子は買い戻される。

村人

 

西暦212年、徐州から逃げ延びた劉備の子は、立派に成人していました。

その頃、関中の馬超(ばちょう)の騒乱を避けて劉括(りゅうかつ)という人が

漢中に移住してきました。

 

この劉括が、たまたま奴隷として働く劉備の子を見て、

その人相が高貴である事を知り、自分が劉備の子を買い取って、

結婚相手を見つけて、家庭を持たしてやりました。

やがて、劉備の子は、一子を授かり父となります。

 

数年後、劉備は益州を得て、やっと群雄として独り立ちします。

劉備玄徳の名前は漢中にまで轟きました。

 

劉備の子は、父の字が玄徳である事を覚えていました。

そこで、益州の主とは、もしや父ではないか?と考えていました。

 

当時、簡という姓の人がいて劉備の舎人でしたが、益州攻略で

手柄を立てて将軍になり、漢中に邸宅を貰い住んでいたので、

劉備の子は、自ら簡将軍と面会すると自分は劉備の子であると言います。

簡将軍が試しに話をしてみると、不思議な事に多くの記憶が一致しました。

 

簡将軍は、これは劉備の子に違いないと大いに喜び、張魯(ちょうろ)に告げて

洗沐させ益州に送り劉備の太子とし、劉備は諸葛亮(しょかつりょう)

太子太傅にし、子が立つに及んでは、孔明を丞相として諸事を委ねました。

 

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簡とは、劉璋を降伏させ昭徳将軍になった簡雍ではないか?

劉備 黒歴史

 

内容の混濁が多くなってきましたが、事実に符合する点もあります。

それは姓が簡という舎人が益州攻略で手柄を立てたという部分です。

蜀書簡雍(かんよう)伝には、彼が成都で籠城する劉璋(りゅうしょう)を説得して、

同じ馬車に乗って帰還し、劉備により昭徳将軍に任じられたとしています。

 

漢中に簡雍がいただの、張魯に洗沐させて益州に送り太子にした

などというのは、劉禅とその他の風聞が混同していますが、

同時期に、確かに簡雍は将軍になっているのです。

 

そういう点を踏まえると、劉備の子は、劉禅と混同されただけで

実際に漢中に逃れ、劉備と再会したのではないでしょうか?

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

こうなると、魏略の全体を確認したくなりますが、残念な事に魏略は

唐の時代には散逸し、裴松之が引用した部分しか明らかではありません。

もしかすると、劉禅の兄にあたる劉備の子は皇太子ではないまでも、

何らかの特権を与えられ穏やかな人生を送ったかも知れないのです。

 

彼の本当の名前は何と言ったのか?彼は結婚して子がいたそうですが、

その子は蜀の歴史の中でどうなっていったのか?

様々な事に興味は尽きません。

 

本日も三国志の話題をご馳走

 

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