荊州牧の劉表(りゅうひょう)は、内政的には有能ですが、外交面では、
基本的に日和見(ひよりみ)で政権を運営した感じがします。
天下分け目の官渡の戦いでも、曹操(そうそう)にも袁紹(えんしょう)にもつかず
ぐずぐずしていて優柔不断に見えます。
実は、劉表は、どちらかと言えば袁紹に与しましたが特に何もしていません。
しかし、それは劉表が日和見していたからではなく、それどころでは無かったからです。
その頃、劉表は手ごわい反逆者、張羨(ちょうせん)との戦いの最中でした。
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荊州南陽郡出身の張羨は人望厚く南郡を支配していた
張羨は生没年不詳ですが、後漢の末に酷政を行い反乱を起こされた交州刺史の
朱符(しゅふ)の後継の交州刺史として後漢王朝から派遣されたようです。
この後、交州は士燮(しきょう)が牧として統治して各地に一族を派遣して安定します。
一方の張羨は交州安定の手柄か、零陵、そして桂陽の大守として人心を集めていきます。
張羨は有能でしたが、誇り高く傲岸不遜で、荊州牧である劉表に従いませんでした。
荊州の支配を強化したい劉表は、自分に盾突く張羨を嫌っていました。
新興宗教の教祖?漢王室を尊敬しなかった張羨
また、一説によると、張羨は漢民族の伝統的な習俗を否定して
漢王朝を敬わず邪俗の教えに親しんで天の助けを待っていたとも言われています。
もしかすると、新興宗教に傾倒していたのかも知れません、
それでも人心を集めたという点を見ると、五斗米道の張魯(ちょうろ)のように
有能で公正な教祖だったという事でしょうか。
しかし、漢の王室を敬わず、独自の政治姿勢を敷くと言うのは、
劉表から見れば邪教を信じる人でしかなく軽蔑の対象になりました。
張羨は、そのような劉表の差別的な扱いに不満を持っていたようです。
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張羨は長沙の大守となり劉表に反旗を翻す
次に長沙の大守になった長羨は、西暦198年、長沙、桂陽、零陵の
3郡で同時に決起して劉表に反旗を翻しました。
南郡の広範囲で反乱が起きた事で、劉表はびっくり仰天し、
すぐさま、討伐軍を送り込みますが張羨の軍勢は強く、中々倒せません。
その中で時間だけが流れていき、二年間が経過しました。
官渡の戦い勃発、張羨は桓階の勧めで曹操に付くが・・
西暦200年、曹操と袁紹の間で官渡の戦いが発生します。
劉表は遠交近攻の政策を取り、袁紹と結びました。
一方で、張羨の配下であった桓階(かんかい)は
「袁紹は献帝を擁している曹操に弓を引く逆賊ですから、
ここは曹操に味方した方が得策です」と進言します。
張羨はなるほどと思い、桓階を曹操の下に派遣しました。
味方に乏しかった曹操はこれを大喜びで迎えます。
しかし、袁紹との戦いで精一杯の曹操は、劉表と戦う張羨の為に
兵力を割く余裕がありませんでした。
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張羨は病死、しかし、南郡の人々は息子張懌を立てて抵抗
劉表は、袁紹に組みしようとしましたが、張羨の南郡が気になり、
袁紹に兵力を送るどころの騒ぎではありませんでした。
結果として、張羨の南郡での騒乱は曹操を間接的にアシストしています。
ですが、煮ても焼いても食えない張羨も寿命には勝てずに201年には病死。
これで戦争は終わるかに見えましたが南郡の人々は、
張羨の息子の張懌(ちょうえき)を指導者として、さらに抵抗しました。
この凄まじい抵抗力は、どうも宗教くさいのですが、或いは、張羨が
上手く南郡の実力者を取りこんでいた成果かも知れません。
いずれにせよ、このような広範囲、かつシツコイ反乱は小豪族の単発の反乱を
超えており張羨は反乱者ではなく劉表の対抗馬と考えても良さそうです。
ですが、張懌には、張羨程の指導力はなく劉表に撃破されてしまいます。
こうして、劉表は零陵、桂陽を吸収し、荊州一国を制覇した主となり、
中国各地から名士・学者を招いて文化を発展させました。
3年続いた天下分け目の荊州合戦は、劉表に軍配が上がったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
荊州牧は劉表というすりこみがある私達には張羨が反逆者に見えますが
事実はそうではなく、荊州の領有を劉表と争った群雄だったかも知れません。
そうして考えると、劉表は最期に張羨を降して、荊州の支配権を確立し、
そこでやっと荊州は安定を見たとも言えるでしょう。
因みに曹操に付くべきと進言した桓階は張羨の死後は在野に降り、
劉表の仕官の誘いも断り、まもなく曹操に仕えて、曹丕(そうひ)の時代には、
厚い信頼を受け、九卿に登るような大出世をします。
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