私達は真似と言うと、猿真似、コピーのようにネガティブイメージを持ちます。
しかし、書道が名人の書を見て模倣して上達するように、すべて自己流よりも、
上手い人や才能がある人の真似をする方が成功の近道という事もあるのです。
三国志の時代でも、最期まで勝ち残る群雄達は、先の成功者を巧妙に真似しています。
今回は、そんな真似の実例を見てみましょう。
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光武帝の戦略を真似て北方四州を制覇した袁紹
曹操(そうそう)と官渡の戦いを行い敗れた袁紹(えんしょう)ですが、彼には
無傷で手に入れた北方の四州があり兵力でも国力でもライバル曹操を圧倒していました。
そんな袁紹の戦略は、後漢を興した光武帝(こうぶてい)の戦い方を真似る事でした。
光武帝も混乱が続く、中央を避けて行司馬として北に逃れ、
ライバルの王郎(おうろう)等を撃破して北方を平定、
基盤を得てから兵をまとめて中原に攻め込んだので
ついに勝利したのです。
具体的に、このプランを進言したのは軍師の沮授(そじゅ)ですが、その下敷きには、
かつて、その方法を取って成功した光武帝の模倣がありました。
袁紹を倒した曹操は、さらに袁紹を模倣して北方の袁紹の残党を掃討する事に全力を使い、
ついに赤壁の戦いの前には、かつて袁紹が握ったのと同じ兵力と国力を手にする事に
成功したのです。
このように優れた人物は、必勝パターンを察知すると躊躇わずに真似て、
成功を掴んでいるのです。
諸葛亮孔明の天下三分も蒯通(かいつう)の真似だった
三国志演義では、起死回生の天下三分の策を劉備(りゅうび)に授ける天才軍師、
諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)、彼のプランは、北に魏、南に呉、
西には劉備の蜀が割拠して、呉と蜀は絶えず連携を取って北の魏を牽制しつつ、
政変に乗じて蜀呉の連合軍で魏を滅ぼすというものでした。
よく出来ているように見える天下三分の計ですが、実は孔明より四百年前、
漢の大将軍、韓信(かんしん)に仕えた蒯通(かいつう)が提案したもので、
斉王になっていた韓信に独立を勧め、南の項羽(こうう)、西の劉邦(りゅうほう)が争い、
共倒れをする隙を狙って天下を狙えと説いています。
結局、韓信は自分を大将軍にしてくれた劉邦を信用し蒯通の策を使いませんでした。
しかし、孔明は、自分のプランを上手く劉備に伝えて、天下三分を実現したのです。
袁術を模倣して地方政権を樹立した孫権
孫権(そんけん)は、地味な呉政権を樹立し、三国の一角を担う活躍をしました。
後に皇帝に即位する孫権ですが、後漢の後継者を自称する蜀や後漢から
禅譲(ぜんじょう:平和裏に政権を譲り受ける)されたと主張する魏と違い、
これという王朝の正当性がない独自王朝でした。
しかし、そんな孫権にも模倣する相手がいました。
それが、197年に皇帝を自称して自滅してしまった袁術(えんじゅつ)です。
彼は、まだ後漢が存続している時代から独立して皇帝を自称し徐・揚州を抑えて
公然と仲王朝を名乗ろうとしますが、プランは失敗して没落、
最期は「は、はちみつ水飲みたい」と言い残し無残な最期を遂げます。
孫権は幼少の頃から、兄、孫策(そんさく)と袁術のやりようを見ていて、
あえて帝位は名乗らぬまでも、地方で独立政権を維持し、魏の脅威が薄れて、
蜀との同盟が強固になった隙を突いて西暦229年に帝位に就きます。
これこそ、本来袁術がやりたかった方法であり、孫権は袁術の方法を模倣し、
悪い点を省いて、ついに成功させた人物なのです。
ビジネス三国志ライターkawausoの独り言
調理入らずで、お湯をかけるだけで手軽に食べられるとして大人気を博した、
袋入りのチキンラーメンですが、日本では大ブームになったものの、
ドンブリを使う文化がない欧米では今一つでした。
しかし、欧米人が袋ラーメンをマグカップに入れて食べるのを見てカップラーメンを
生み出した日清は、袋ラーメン以上の大ヒットを飛ばしました。
これこそ袋ラーメンを真似つつ、カップという独創を加えたアイデア勝利です。
チャンスとは、このように模倣の先にも転がっているものなのです。
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