史料が少なく扱いにくいとして、多くの漫画家が敬遠していた秦による天下統一
その時代を描いて、大ヒットを飛ばしているのが週刊ヤングジャンプのキングダムです。
もちろん漫画として、大幅に脚色している部分はありますが、作者は、
史実でも登場する人物は、最後は史実通りに終わらせると宣言していまして、
「じゃあ、あのキャラは最後どうなるか?」とファンの最後予想も盛んです。
ですので、今、キングダムで活躍しているキャラ、かつて活躍していたキャラが
史実ではどんな最期を迎えたのか、今回は特に悲惨な最期を迎えたキャラクターを撰び
あの名将の悲惨な最期と銘打ってワースト8を紹介しましょう。
この記事の目次
ワースト8 理不尽な最期を無理矢理納得死 蒙恬
TOPバッターは、現在、趙と朱海平原で戦い、知略で臨時とはいえ将軍になり、
主人公、信を追い越したイケメン蒙恬(もうてん)から、紹介していきましょう。
キングダムでは、割合、序盤から出ている蒙恬ですが、史実では、文官として、
訴訟や裁判に関わる存在であり、長い事、戦争には無関係でした。
しかも、紀元前224年の初陣では、李信将軍の副将として、20万の秦軍を率いて
楚を攻めたものの、序盤の勝利に奢って油断し、楚の項燕(こうえん)大将軍に追撃され大敗、
ほとんどの兵力を失う程の大損害を受けて命からがら秦に戻りました。
従来、秦では敵に敗北した将軍は、全財産を没収して、当人は死刑にし、
家族は奴隷に落とすという厳しい措置を取っていましたが、どういうわけか、
蒙恬と李信だけは、罪に問われず許されています。
この点から、蒙恬は個人的にも、秦王政(始皇帝)に気に入られていたようです。
紀元前221年には、家柄により将軍となり、戦国七雄の最期の一国、
斉を滅ぼして、天下統一に貢献しました。
その手柄から、さらに始皇帝の覚えも目出度くなり、紀元前215年には、
30万の大軍を与えられて、匈奴(きょうど)を打ち破って北方に追いやると
オルドス地方を併合、そして、かの万里の長城の建設に着手します。
無事に長城を建設し終わると、始皇帝は益々、蒙恬を寵愛し弟の蒙毅(もうき)も
取り立てを受け、祖父の蒙驁(もうごう)の代から将軍だった蒙家は
空前の繁栄を迎えます。
しかし、やがて、始皇帝と反りが合わなかった、始皇帝の嫡男、
扶蘇(ふそ)が蒙恬の元へ送られてきます。
その理由は、蒙恬の反乱を防ぐ監視役とも、蒙恬を教師として帝王学を
身につけさせる為とも言われますが、蒙恬にとってそれは悲劇に繋がりました。
紀元前210年、始皇帝が5度目の全国巡幸の途中に崩御、本来、その遺言書は、
蒙恬の所に遣わした扶蘇に2世皇帝になるように告げたものでしたが、
扶蘇と仲が悪い、宦官(かんがん:去勢された男性)趙高(ちょうこう)と
丞相(じょうしょう:総理)の李斯が遺言書を改竄、蒙恬と扶蘇には、
死を与えるとする偽の遺言書を送ったのです。
蒙恬は、遺言書は偽物の疑いがあると、扶蘇に様子を見るように説得しますが、
親孝行な扶蘇は、蒙恬の説得も聞かず、毒を飲んで死亡。
毒を飲まずに頑張っていた蒙恬の元にも、2世皇帝として即位した胡亥(こがい)から、
死を命ずる命令が届くのです。
蒙恬は、必死に自分がどうして死なないといけないのか理由を探し、
やがて「万里の長城を建築する時に地脈を断ってしまった、それが私の罪だろう」と
無理矢理な理由で自分を納得させ自害しました。
史記を書いた司馬遷(しばせん)は、蒙恬に対して手厳しく、
「500年の戦乱が終わった直後で、疲れ果てている民を顧みず、
始皇帝に迎合して功名の為に長城建設に人民を酷使して殺し、それを顧みなかった。
それこそ、一族が滅ぼされた報いである」と書いていますが、
匈奴はその頃、英雄、冒頓単于(ぼくとつぜんう)が出て、中原への侵入が
活発な時期で万里の長城が不必要とは言えない時期でした。
それに現在では、万里の長城の建設も、一定の節度を持って行われ
死んでも別の人間が来るから、幾らでも無理させてもいいという
杜撰な計画では無かったと言われています。
そう考えると、蒙恬は、まあ、真面目な将軍であったと言えるでしょう。
酷評をした司馬遷も、蒙恬は、中の上クラスと判断していますしね。
ワースト7 なりふり構わぬ儲け主義が破滅を産む 呂不韋
呂不韋(りょふい)はキングダムの中盤にかけて、
秦王政の前に立ちはだかった最強の敵でした。
彼は配下に呂不韋四柱という名将を揃えており、その中には、
李斯(りし)や、昌平君のような、以後、紹介するような人材が含まれています。
そんな呂不韋は史実では、衛という小国出身の商人でした。
若い頃から、金儲けが上手い商才に長けた男でしたが、小さな商売を嫌い、
いつでも、一攫千金のドでかいビジネスを志向していたようです。
そんな呂不韋が、趙の都の邯鄲に商用で出向いた時、町中で異人(いじん)という
みすぼらしい秦の公子(王子)を目にしました。
当時の戦国七雄は、各国に王族を派遣し安全保障の代わりにしていました。
その人質は、戦争がない間は丁重に扱われますが、一度戦となれば、
みせしめに血祭りに上げられる可哀想な存在でした。
おまけに、秦から趙に派遣された異人は、ろくな後盾もない王子で、
秦からの仕送りもほとんどなく、貧しい暮らしをしていたのです。
呂不韋は、異人を見た時に、ピンと来ました。
「奇貨置く可し(※珍しい掘り出し物だ手元に置こう)」
こうして、呂不韋は、異人に近づき、みすぼらしい衣服を捨てさせ、
高価な衣装を身につけさせ、ふんだんに金を与えて趙の名士と交流させ
知名度を高めるように仕向け、同時に、当時、秦の昭襄王(しょうじょうおう)の
皇太子だった、安国君の寵妃、華陽(かよう)夫人に接近します。
実は、華陽夫人には、子供がいませんでした、それを見透かした呂不韋は、
「今後の為に、異人を養子にしなさい」と説き、それに乗った夫人は、
安国君にお願いし異人を養子に迎えました。
この時、華陽夫人が楚人であった事から、異人は子楚(しそ)と改名しています。
その頃、子楚は、呂不韋の愛人だった趙姫に夢中になり、厚かましくも、
呂不韋に趙妃を譲るように持ちかけます、呂不韋は「品物の癖に・・」と
一瞬、腹を立てますが、子楚が一攫千金の金の卵だと思い直して我慢し、
趙姫を子楚に気分よく譲渡します。
間もなく趙姫は懐妊し、男子を産みます、それが贏政(えいせい)、後の始皇帝です。
まもなく、秦の昭襄王が死去し、安国君が即位、呂不韋の目論み通り、
皇太子は、華陽夫人の養子の子楚に決定します。
即位した安国君は、孝文王として即位しますが、1年で死去、、
こうして、呂不韋の拾った薄汚く貧しい公子は、秦の国王に化けたのです。
もちろん、呂不韋は荘襄(そうじょう)王となった子楚により丞相に引き立てられ、
同時に、趙に残した政は秦に帰国して皇太子に趙姫は皇后となります。
呂不韋が子楚を引き立てなかったら、秦の始皇帝は誕生しませんでした。
それから、3年後、荘襄王は死去、政は秦王として13歳で即位します。
呂不韋は亜父(父に次ぐ者)として、政の尊敬を受け、同時に、
年少の政を補佐して、大后と共に、秦の政治を動かしていきます。
ところが、破滅は呂不韋の足元からやってきました。
元の愛人である大后は、淫乱な性質で、夫の荘襄王の亡き後、
性欲を持てあまし、呂不韋と、よりを戻したのです。
しかし、前王の妻との姦淫など、露見すれば身の破滅です。
おまけに初老を迎えていた呂不韋は、女盛りの大后を満足させるのも
難しい状態になっていました。
そこで、呂不韋は、嫪毐(ろうあい)というアソコがBIGな男を探し、
すべての毛を抜いて宦官という事にし、大后の元に送り込みます。
ですが、それは、呂不韋の破滅を少し遅らせただけでした。
大后は嫪毐に夢中になり、子供を懐妊、男子を2名産みます。
嫪毐は、これが露見すれば破滅する事を恐れ、先に謀反を起こして、
秦王政を殺そうとしますが、謀反はあっさり鎮圧、やがて、大后が、
呂不韋と密通していた事実も秦王政にバレてしまいます。
嫪毐は車裂きの刑に処されますが、呂不韋はこれまでの功績から
死罪を免れ、丞相職の罷免と蟄居を申し渡されます。
ところが、その後も、呂不韋に面会を求める客は減らず、呂不韋も、
交際を辞めなかったので、疑心暗鬼にかられた秦王政は、
さらに呂不韋を蜀という僻地に流しました。
「この分なら、俺は追いつめられ殺されるな・・」と悟った彼は、
翌年、毒を飲んで自殺してしまったのです。
商才に長けた呂不韋でしたが、さすがに趙姫が淫乱であった事までは、
見抜く事が出来ず、身の破滅を招いてしまったのです。
ワースト6 戦は強いが世渡り能力がゼロ こじらせ中二病 白起
白起(はくき)は、キングダムでは伝説の秦の六大将軍として、気持ち悪い顔で登場、
強いが、敵兵を好んで穴埋めにして殺す残酷な将軍として回想シーンに出てきます。
さて、気持ち悪い顔だったかどうかは不明ですが、史実の白起も、キングダムに
劣らない残虐で強い将軍であり、楚漢戦争の時代に、淮陰侯(わいいんこう)
韓信(かんしん)が登場するまで、戦の天才の名をほしいままにした人物でした。
白起は秦の人間ですが、元は賤しい身分だったようです。
細かく手柄を積み重ね、名を上げて、紀元前294年、左庶長という役人としての
スタートラインの官位にたつと、韓の国を攻め、翌年には、韓と魏を攻めて
伊闕(いけつ)の戦いで24万人という敵兵を斬首しました。
紀元前292年には、再び魏を攻めて、大小61の城を落とし、
紀元前278年には、楚を攻め、鄢郢(うてい)の戦いで楚の首都郢を落とします。
この時に、白起は、当時タブーだった、楚の王族の墓を暴いて
遺体に火をつけて焼き捨てるという蛮行を行っています。
その頃まで、戦いは相手を滅ぼすまではやらないという不文律があり、
敵の王族や王墓は保護する決まりでしたが、白起は平然と無視し、
遺体まで焼き捨て、秦以外の王国は地上に残さないとしたのです。
六国は白起の所業を恐れ、そして憎みました。
紀元前260年、趙との長平の戦いでは、降伏した趙兵40万に食わす食糧がなく
反乱の恐れがあるという理由で、巨大な穴を捕虜に掘らせ、そこに捕虜を
突き落として土をかぶせ40万人を殺してしまいました。
残されたのは、成人していない240人の少年兵だけだったようです。
白起は、残忍無慈悲が常識の当時の将軍でも、郡を抜いて残忍な性格で、
その生涯に71の城を落とし、80万人を超える敵兵を、
穴埋め、斬首、黄河に流して溺死させるという方法で殺害しました。
彼は、中国史上最大級のジェノサイダーでもあったのです。
まあ、実際に戦うのは人なので、人を減らせば、戦争には有利とは言え、
あまりにも合理主義が過ぎて怖い位です。
しかし、このように敵に対しては無敵の白起ですが、味方に対しては、
信じられない程に警戒心がありませんでした。
長平の戦いで、趙軍を撃破した白起は、そのまま都の邯鄲を包囲し、
趙は壊滅寸前になりますが、白起に手柄を立てさせる事を危惧した宰相の
范雎(はんしょ)が、単独で趙と和睦を結んで、白起に帰還を命じます。
白起は、この措置で范雎に不信感を持ち、病気と称して家に引き籠ります。
翌年、秦は再び、王陵を司令官に邯鄲を包囲しますが、白起の時のようにいかず、
紀元前258年には、増援部隊を送り、さらに司令官を王齕(おうこつ)変えて
包囲を継続しますが、趙の援軍に来た楚の春(しゅんしん)申君と
魏の信陵(しんりょう)君の援軍により撃破されます。
これに慌てた秦の昭襄王は、慌てて、白起に出陣を促しますが、
すでに中二病をこじらせた白起は、病気と称して出陣しませんでした。
戦国策という書物では、昭襄王と范雎が揃って出陣を依頼しても、
「できませんな、すでに趙は勢いを回復させてしまいました
だから、私は王齕ごときでは、勝てないと言ったのです」と批判したそうです。
勝てそうな所までこぎつけて、寸前で手柄を邪魔された気持ちは分かりますが
この非常時に私的な恨みごとを述べるのが、白起の致命的な欠陥でした。
范雎は、これをチャンスと考え、その後、昭襄王に白起が謀反を企んでいると
吹き込んだので、やがて、白起には自害せよという命令書が届きます。
自害を命じられた白起は、どうして自分が死なねばならないのか?
自問自答したそうです、それはそうでしょう、彼は無敗でしたから、、
ただ、味方にも敵がいる事を理解できずに、彼は死ぬ事になったのです。
「そうだ、俺が死ぬのは当然だ、長平で40万の敵兵を穴埋めにしたではないか」
こうして、無理矢理に自分の罪を納得させた白起は自殺しました。
秦では無敵の将軍だった彼の死を悼み、秦人は各地に廟を建てて祀ったそうです。
少し後に出現する韓信も、白起のような残虐な戦法ではありませんが、
味方に対する警戒心が薄いのは共通していて、やはり天下統一後に、
劉邦(りゅうほう)の不信を招き、殺されてしまう末路を辿っています。
ワースト5 絶頂からの転落人生 桓騎
桓騎(かんき)は、キングダムでは最も成功したヒールのキャラクターです。
その性格は残忍無比で情に薄く、戦いに勝つためには、何でも利用し平気で捨てる。
主人公の信とは、正反対のキャラクターで漫画を盛り上げています。
戦い方は、捕虜や無抵抗な人民を殺戮して身体をバラバラにして晒し、
敵の戦意を喪失させるタイプのモノが多く、鬼畜の桓騎で通っています。
元は、山賊あがりという事もあり、戦いのセオリーを無視したトリッキーさで、
合従軍編や、山陽戦、黒羊丘編で、度々、手柄を立て大将軍に近い存在まで昇り、
現在は、趙を攻めていて、王翦(おうせん)、楊端和(ようたんわ)と共に
秦軍の一角を為しています。
漫画では昇り調子の桓騎ですが、史実では没落が運命づけられた存在です。
実際の桓騎は出自が不明ですが、山賊上がりであるという表記はありません。
紀元前237年に、突然、将軍となり、紀元前236年(漫画時間はココ)に
王翦や楊端和と趙の要衝である鄴(ぎょう)を攻め、先ず、その周辺の9城を奪取し、
桓騎はここに留まり、王翦が一人で、閼与(あつよ)、鄴などを落とすとあります。
【保存版】キングダム、あの名将の悲惨な最期ワースト8選の続きは下記シミルボンにて掲載しています
【保存版】キングダム、あの名将の悲惨な最期ワースト8選の続きはこちら