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98話:曹操、張魯を降すべく漢中に進軍する

2015年7月8日


夏侯惇

 

建安20年、西暦215年、曹操(そうそう)夏候惇(かこうとん)
進言を入れて、張魯(ちょうろ)が独立国のように支配している漢中を
攻略する為に兵を興します。

「漢中の張魯を降し、その余勢をかって蜀の劉備を破る」

夏候惇の進言は、曹操に大きく響きます。

 

前回記事:97話:蜀を得た事で呉と荊州の支配問題が再燃する

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操の漢中攻略が遅れを取っていた理由

馬超

 

本来ならば、西暦211年に漢中は、曹操軍50万によって制圧できて
いた筈でしたが、鐘繇(しょうよう)の政策のまずさから、
馬超(ばちょう)が蜂起してしまい、その鎮圧に忙殺された結果、
漢中攻略は延期されたのです。

しかし、その為に劉備(りゅうび)は、まんまと益州に入って
劉璋(りゅうしょう)を降し、今や、益州牧として着々と力を蓄えています。

 

曹操:「あの時、馬超を追って無理にでも張魯を降伏させていれば、
劉備が蜀に入るのを阻止できたものを、、、」

 

曹操にとっては痛恨の大失敗ですが、それは過ぎた事、
今は、劉備が勢力を蓄える前に討たねばなりません。

 

張魯征伐のメンバー発表

曹操軍

 

曹操は、30万の軍勢を率いて張魯征伐に乗り出します。

先陣を夏候淵(かこうえん)、・張郃(ちょうこう)、
後陣を夏候惇(かこうとん)・曹丕(そうひ)が務め、
曹操自身は、中軍に位置しての威風堂々とした構えです。

 

曹操が漢中に拘った理由

 

さて、どうして曹操が漢中にこだわったか?と言うと
ここが、蜀と長安を結ぶ重要な拠点だったからです。

蜀は周囲を険しい山に囲まれていて、おいそれと
外の世界に出る事は出来ません。
その数少ない外界への出口が漢中であったのです。

 

劉備が国内を固めたら、次に確保しようとするのは必ず漢中でした。
ここを抑えれば、長安、そして洛陽が見えてくる。

だからこそ、曹操は、劉備に対する守備の要として、
漢中を必要としていたのでした。

もちろん、張魯だって、黙って曹操に降伏しようなどとは思っていません。

 

張魯軍対曹操軍

 

この漢中は新興宗教である五斗米道の根拠地であり、領域には、
熱心な信徒と強力な軍隊がいたからです。

 

張魯軍:「曹操何するものぞ、ここで逆に血祀りにあげてやるわ!」

 

張魯軍は、意気盛んで陽平関で曹操軍を迎撃しました。
曹操軍は、長旅の疲れもあって、緒戦に敗北を喫してしまいます。

気をよくした張魯軍ですが、ここで曹操は攻撃を止め、
それから50日間に渡って両軍のにらみ合いが続きました。

 

曹操軍が動く

曹操50万の兵

 

最初に動いたのは曹操軍でした、何と、突然退却を開始したのです。

張魯軍は俄然、勢いづきました。
「曹操と言えど、我が軍の強さには舌を巻いたと見える、
それ、追撃して許都まで追い散らしてしまえ」

しかし、この退却は戦慣れした曹操の罠でした、陽平関を開いて
出てきた張魯軍に曹操の伏兵が襲い掛かります。

驚いた張魯軍は敗走してしまい、本拠地である漢中を放棄して、
さらに南の南鄭に拠点を移して、尚も徹底抗戦の構えを取ります。

しかし、曹操は、少しもあわてず南鄭城が見下ろせる山の上に
陣を敷くと、そこから弓矢を一斉射撃しました。

これには張魯はたまらず、さらに敗走して巴中に逃れていきます。

曹操は、これ以上張魯を追撃しようとはせず、
疲労が濃い兵士を休ませる為に、守備兵を置いて、
軍を許都まで引き上げさせました。

 

曹操が張魯を配下に加えようと思ったきっかけ

張魯 お宝

実は、三国志正史によると、
張魯は南鄭から巴中に退却する時に、宝物庫を破壊しなかったそうです。
その理由は、「国の富は万民の富であり、私一人の富ではない」
という張魯の信念があったから、、

曹操は、南鄭に入城した時に、宝物庫が封印されて
少しも略奪されていないのを見て感心し、張魯を殺さずに
配下に加える事を決意しました。

まあ、かくして曹操は、念願だった漢中を降してしまいます。
その事に逸早く反応したのは益州の劉備でした。

 

次回記事:99話:荊州を餌に孫権に合肥を攻めさせる劉備

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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