全て乱世の始まりには、契機になる出来事が存在します。
例えば日本の戦国時代は、守護大名細川氏と山名氏がそれぞれに
室町将軍の後継者を立てて京都を中心に争ったのが切っ掛けです。
時に西暦1467年、応仁の乱と呼ばれています。
有力な二人の守護大名に加勢しておこぼれに預かろうと
数十の有力な大名が西軍と東軍に分かれて10年間戦争を継続。
これで京都は灰になり、室町将軍の権威は地に落ちて、
武士達は命令に従わなくなり下剋上の風潮が吹き荒れるのです。
前回記事:頓挫する王莽の新と、後漢王朝の復活
この記事の目次
三国志は黄巾の乱から始まった
では、三国志の乱世の契機は何かといえばこれは黄巾の乱です。
西暦184年、太平道という新興宗教の教祖の張角が、
腐敗した漢王朝の打倒を叫んで挙兵したのです。
最悪の金権政治と腐敗だらけの漢王朝
その頃、漢王朝は、最悪の金権政治の汚職と腐敗に塗れていました。
14代皇帝の霊帝は、政治的に無能でお金儲けにしか関心がない人物。
当然、政治は、霊帝の妃、何皇后の一族である外戚と
霊帝の使用人である、宦官である十常侍によって牛耳られるようになります。
政治からは公平性が失われ、全ての官位はお金で売買され、
役人は出世して更に儲ける為に重税を課し庶民は苦しめられました。
張角は、これこそ漢の天下が衰えた兆しだと考えます。
張角が何故、太平道を起こして漢王朝を滅ぼそうと思ったのか
元々、張角自体が、世の中を良くしたいという熱血漢で、
役人の採用試験を受けて落第したという経緯もあり、それが叶わない今
武力によって、漢を滅ぼし自分が皇帝になろうと考えたのです。
元々、中国には、徳を失った人物を倒し、有徳の士が天下を取るのは
天帝の意思に適う事であるという革命思想がありました。
張角の挙兵はタイムリーでした、張角の世直しに呼応した民衆は、
自発的に黄色の布を頭に巻いて役所を襲い、金持ちの蔵を破り
略奪と暴行を繰り広げて勢力を拡大させていきます。
中国全土に膨らんだ、黄巾賊
黄巾軍が、中国全土に革命の火を広げ、50万の大軍勢になると
内部抗争に明け暮れていた十常侍と外戚も一時休戦を余儀なくされます。
「ここで黄巾賊に洛陽に入られては一大事、ここは休戦して手を組もう」
宦官のトップである蹇碵(けんせき)は外戚の何一族と休戦して、
皇后の兄である何進を大将軍に任命して黄巾賊の討伐を命じます。
何進は、元は屠殺業者の庶民で軍事の知識など何もありませんが、
漢の有能な将軍に補佐されていました。
しかし、相手は50万人という大軍勢であり、官軍だけでは不安です。
そこで、朝廷は黄巾賊討伐の義勇軍を全土で募集します。
若き日の劉備、曹操、遂に歴史の表舞台に登場したよ
これに呼応して戦乱の世に身を投じたのが若き劉備玄徳で、
当時23歳という青年でした。
「世直しを掲げても連中がやっている事は山賊と変わらない
何が聖人張角か、何が太平道の教えか、、やっつけてやる!!」
中山靖王劉勝の末裔と名乗る劉備でしたが、事実は没落し
筵や草履を編む仕事をしなければ生活できない貧民でした。
平和な世の中なら、決して世の中に出られなかった劉備は
不思議な運命に導かれ、こうして三国志の表舞台に現れます。
劉備は、義勇軍募集の立て札を読んでいる時に、偶然にも
同じく国を憂いている関羽や張飛と会って意気投合しています。
とても偶然とは思えない巡り合わせで劉備は後の皇帝への
階段を大変に時間は掛かるのですが登っていくのです。
男気溢れる男、黄巾賊討伐では大活躍の孫堅(そんけん)
同じ頃、江東の地では、孫堅という男が司馬という地位に就いて
反逆的な宗教勢力を撃破して名を上げていました。
孫堅(そんけん)は17歳で海賊を策略を使って追い払った男でしたが、
その軍事的な才能を認められ、役人として採用されていたのです。
黄巾の乱が勃発すると孫堅は地方軍の一隊として、
官軍の中郎将朱儁(しゅしゅん)の配下に配属されて波才(はさい)
という黄巾賊の首領の一人を撃破するという功績を挙げます。
次第に朱儁に代わって軍を率いるようになり、黄巾賊が壊滅した後には
別府司馬という官位を得て江東で地盤を固めていきました。
孫堅は孫子の子孫と言われますが、系譜は明らかではなく、
矢張り、黄巾の戦乱に乗じて世に出た人物と言えるでしょう。
言うまでもなく、この孫堅こそ、孫策、孫権の父であり、
後の三国の一角、呉国の基礎を築く人物です。
黄巾の乱で出世の糸口を掴んだ曹操(曹操)
もう一人、黄巾の乱が出世の糸口になった人物が曹操です。
曹操は、前述の2名と違い、曹騰(そうとう)という金持宦官の
養子になった曹嵩(そうすう)という人物の子で、
幼少時から何不自由なく育った不良のドラ息子でした。
20歳で仕官して、県令や都尉のような仕事をしていましたが、
袁紹のようなエリートに較べれば官位は高いとは言えません。
しかも、公明正大で不正を憎んだ曹操は、派遣された先で、
十常侍の筆頭である蹇碵の叔父を起立違反で打ち殺しています。
蹇碵は、曹操の態度に怒りますが、理は曹操にあったので、
陥れる方法も見つからず、曹操を県令に昇進させて、
都洛陽から、遠ざけてしまいました。
もし、このままであったなら、曹操は十常侍の不興を買ったまま
これ以上、出世する事もなく、一生を終えたかも知れません。
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黄巾賊をフルボッコする曹操
ところが西暦184年、黄巾の乱が勃発すると曹操は呼び戻され
騎都尉に任命され、官軍の主力として、朱儁、皇甫嵩、等と共に
黄巾賊の討伐に参戦して、黄巾賊を滅ぼす大金星を挙げます。
この功績で、斉南の相に任じられた曹操は、汚職を摘発して、
腐敗官吏を一掃して人望を得るようになります。
こうして見ると魏、呉、蜀、いずれの建国者も
黄巾の乱と大きく関わっているという事が分かります。
そして、黄巾の乱は、ただの農民反乱に留まらず、次なる
大動乱の種を中国に撒いていくのです。
次回記事:黄巾の乱は、どうして起こったのか? 黄巾賊についてわかりやすく解説
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