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盧植とはどんな人?不正と悪を憎み酒を愛した武闘派学者の人生

2018年11月12日


 

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盧植

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

時代劇では師匠と弟子というのは特別な関係を持つものです。

中国においても師は父母に並ぶ尊敬すべき存在であり、その関係は一生続きました。

三国志の英雄劉備(りゅうび)にも、師と仰ぐ存在として盧植(ろしょく)が登場します。

そして、この盧植、学者でありながらかなりの武闘派として名前が轟いているのです。

今回は敵味方を超えて、多くの人に慕われた盧植について解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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色にも詩にも興味なし大酒を飲んだ武闘派学者

色にも詩にも興味なし大酒を飲んだ武闘派学者の盧植

 

盧植は幽州涿(たく)涿(たく)県の出身です。

身長八尺二寸(漢の寸法では195センチ)という大柄な人物で声は鐘のように大きく響き、

若い頃から早くもタダモノではない風格を漂わせていたようです。

 

盧植は勉強熱心でもあり、青年になると友達の鄭玄(じょうげん)と共に馬融(ばゆう)という当代随一の学者に師事しました。

 

ところが、この馬融、元々後漢を建国した功臣である将軍馬援(ばえん)の一族で外戚(がいせき)である事から贅沢(ぜいたく)が染みつき

講義の最中も多くの美女を(はべ)らせて歌舞音曲を楽しんでいたという人でした。

梁冀

梁冀

 

おまけに馬融は長いものに巻かれる俗っぽい性格で、皇帝を毒殺して政治を欲しいままにし跋扈(ばっこ)将軍の異名をとった梁冀(りょうき)

迎合したので清流派の名士からは濁流派のボスだと非難され、同席を拒否する者までいたそうです。

並の青年なら、そんなお色気満載の馬融の塾で講義を受ければ、美女にウハウハで勉強どころではありませんが、盧植は美女には一度も目もくれず

真面目に学問に取り組んだので、馬融にも敬意を持たれ目をかけられました。

 

数年、馬融に師事する間に盧植は大いに教養を積んだのですが、詩文を造らず酒を一石(19,8ℓ)も飲み、俺は世界を救うのだという

大志を語っていました。

なんだか学者らしくない武闘派の雰囲気を持つ人だったのです。

 

 

 

九江蛮を討伐するも病で故郷に帰り塾経営と著述に励む

九江蛮を討伐するも病で故郷に帰り塾経営と著述に励む 盧植

 

そんな盧植ですから、複数の州郡から引く手あまたでしたが、それを盧植はすべて断ります。

盧植は建寧年間(168年~172年)の中期に博士(はくし)になりました。

こうしてみると、盧植はしがらみが多い宮仕えが嫌いな研究室の学者タイプかも知れません。

 

西暦175年に九江蛮(きゅうこうばん)が反乱を起こすと文武の才能がある人物として四府から推薦され九江太守に任命されます。

ここで盧植は期待に応えて九江蛮を鎮圧しますが、途中で病気を得たとして官職を去りました。

病気なんて言ってますが、盧植の性格から考えて俺の役割は終わったという事かも知れません。

 

こうして、故郷、涿郡涿県に帰った盧植は「尚書章句」や「礼記解詁(らいきかいこ)」等、著作を執筆する傍らで私塾を開いて近隣の子弟に学問を教えています。

 

著名な盧植の私塾は入門者であふれ、三千人も弟子がいたそうで、その中には盧植と同郷の劉備(りゅうび)や、公孫サン、高誘(こうゆう)というような人物も

含まれていました。

劉備は盧植と違い、学問には熱心じゃなかったようですが、盧植の豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格には大いに感化されたかも知れません。

 

 

会南夷を討伐し、盧江太守から帝都図書館の職員へ

会南夷を討伐し、盧江太守から帝都図書館の職員になった盧植

 

私塾を経営していた盧植ですが、再び、会南夷(かいなんい)が反乱を起こします。

朝廷は以前の盧植の手柄を見込んで盧江太守に任命、数年勤めました。

 

ここでも反乱を鎮めると辞職しますが、今度は洛陽に呼び出されて東観(とうかん)という漢帝国の図書館の職員になります。

 

学者として研究に専念したい盧植に取って、ここは願ってもない仕事場で同僚の馬日磾(ばじつてい)蔡邕(さいよう)楊彪(ようひょう)韓説(かんせつ)らとともに五経の改訂や

漢紀の編纂事業(へんさんじぎょう)に携わっています。

 

その博識で清廉な人柄は、洛陽では増々広まり、尊敬を集めるようになり召されて侍中(じちゅう)になり、次には尚書(しょうしょ)に移動します。

こうして盧植は中央の政治に関わりますが、硬骨漢ぶりは相変わらずで、霊帝(れいてい)が取り巻きや宦官(かんがん)と組んで腐敗した金権政治をしている事に我慢できず

たまたま起きた日食(にっしょく)を理由に政治の刷新(さっしん)を訴えました。

 

当時、日食は政治が正しく行われない事に対する天の怒りと考えられていました。

しかし、霊帝は盧植の意見を聞き入れなかったようです。

 

 

黄巾の乱勃発!北中郎将として張角を破るが・・

牢獄された盧植

 

西暦184年、黄巾(こうきん)の乱が発生、やっぱり盧植はそれまでの戦功を買われて再び四府からの推挙を受け北中郎将(ほくちゅうろうじょう)に任命、

北軍五校士の将軍として護烏桓(ご・うかん)中郎将の宗員(そういん)を副官に据え、さらに志願兵を募る事で大軍を編成して張角(ちょうかく)の討伐に向かいます。

 

盧植の軍は強く、張角の軍を大いに破り広宗城に敗走させました。

勢いに乗る盧植軍は広宗城を包囲して、雲梯車(うんていしゃ)で城内に入り込もうとします。

しかし、ここで盧植に思わぬ落とし穴が待ち受けていました。

 

戦況を視察する為に霊帝の使いとして、小黄門(しょうこうもん)宦官(かんがん)左豊(さほう)が盧植の本陣を訪れ、当然のように

「良い報告をしてほしいなら賄賂(わいろ)を寄こせ」と要求したのです。

五銖銭

 

ずーっと硬骨漢(こうこつかん)でやってきた盧植に大人の対応など出来ません。

「こんな兵糧不足の時期にあなたに献上するものなどない!」と突っぱねてしまいました。

 

これを恨んだ左豊は洛陽に帰還すると霊帝に「盧植は指揮を怠慢(たいまん)して戦争を長引かせている」と讒言(ざんげん)します。

これを真に受けた霊帝は激怒、盧植を逮捕して官職をはぎ取り死罪を命じますが、周囲の反対もあり罪一等を減じて牢獄に収監してしまうのです。

 

ほーんとに正直者は割に合いませんねー!

 

盧植の後任は董卓(とうたく)でしたが、羌族相手とは勝手が違うらしく大苦戦、結局、董卓も更迭され代わりに()州で黄巾賊を平定していた皇甫嵩(こうほすう)

広宗城を包囲、奇襲により張角の弟で副将の張梁(ちょうりょう)を斬り、さらに、もう一人の弟、張宝(ちょうほう)も斬りました。

すでに張角は亡くなっていたので指導者を失った黄巾の乱は終息に向かいます。

一方、皇甫嵩は洛陽に帰還してから、いかに盧植の指揮ぶりが素晴らしかったかを証言したので、盧植は許され再び尚書に返り咲きました。

 

何進に董卓の危険性を忠告するが無視、宦官皆殺しには加担

何進に董卓の危険性を忠告するが無視、宦官皆殺しには加担 した盧植

 

黄巾の乱が終結すると、外戚の何進(かしん)と宦官の間で勢力争いが起こります。

特に西暦189年にアホ皇帝の霊帝が死んでから争いには拍車が掛かりました。

 

何進は、宦官皆殺しの計略を配下の袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)の要請で実行に移そうとしますが、妹である()太后が宦官の味方をして煮え切らないので、

涼州軍閥の董卓を洛陽の周辺まで呼び寄せて圧力をかけようと画策します。

盧植は、董卓の凶暴な性格を知っていたので、これに反対しますが何進は聞きませんでした。

 

ところが何進は、グズグズしている間に宦官、仲常侍に先手を打たれ殺害されます。

これに袁紹や袁術が猛反発し、兵を率いて後宮に乱入し宦官を皆殺しにしました。

この時には、盧植も宦官皆殺しに加担し、少帝を連れて逃げる仲常侍(ちゅうじょうじ)の前に大斧を持って立ち塞がったそうです。

 

学者先生が大斧を武器にして仁王立ちですよ、違和感ありありですよね。

まあ、盧植は宦官の左豊のせいで投獄され、ひどい目にあっていますし、性格を見ても清流派の人物のようですから無理もないでしょう。

 

ですが、この大混乱のせいで洛陽の行政は麻痺(まひ)、城外に逃げた少帝と陳留王は、洛陽郊外にいた董卓に保護されました。

こうして、董卓は帝を保護したという大義名分を得て堂々と洛陽に入城したのです。

 

董卓相手にも遠慮なく諫言、隠棲して大往生

亡くなる盧植と悲しむ袁紹

 

董卓は少帝の威光を背景に、次第に暴君の性質を現していきます。

群臣は皆、董卓の恐ろしさに不満があっても口をつぐんでいましたが、盧植は硬骨漢ぶりを発揮し、憶する事なく堂々と諫言(かんげん)しました。

 

特に、董卓が少帝を廃して陳留王を皇帝にすると言い出すと、「なんの権限があって」と猛烈に反対、激怒した董卓は盧植を投獄して

処刑しようとします。

 

しかし、蔡邕や議郎(ぎろう)彭伯(ほうはく)が「盧植を殺せば天下の声望を失います」と必死に董卓を(なだ)めたので、董卓も渋々譲歩し

尚書をクビにするだけに留めました。

 

命の危険を感じた盧植は、病気療養を理由に洛陽から逃亡、これを察知した董卓は追っ手を差し向けますが手遅れで、

盧植は故郷に近い上谷郡(じょうこくぐん)隠棲(いんせい)します。

その後、冀州牧の袁紹(えんしょう)が軍師になってくれるように依頼するとそれに応じますが病気になり、192年に死去しました。

 

盧植の硬骨漢ぶりは天下に聞こえていて、西暦204年袁紹の遺児である袁尚(えんしょう)を破った曹操は、途中に盧植の故郷である涿郡涿県に立ち寄り、

盧植の功績を顕彰し、盧植の子であった盧毓(ろいく)を取り立てて長年の功績に報いたそうです。

 

 

 

 

盧植とはどんな人?不正と悪を憎み酒を愛した武闘派学者の人生

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