【意外な事実】公孫サンは英雄劉備が真似した人物だった!

2018年10月15日


 

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公孫瓚と劉備

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

学ぶの語源は真似るから来ているとも言われています。

皆さんも、アイドルやミュージシャンの言動や行動、髪型を真似た事があるでしょう。

それは、三国志の時代でも違いはなく、三国志の英雄劉備(りゅうび)公孫(こうそん)サンを真似て劉備軍団を築き上げていたフシがあります。

今回は北方の覇者として、袁紹(えんしょう)と天下の覇権を争った公孫サンを解説していきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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身分は高いが生母の身分の低さの為に下級役人から出発

公孫瓚

 

公孫サンは、幽州遼西郡令支県(ゆうしゅうりょうせいぐんれいしけん)の出身で、父は二千石の高級官僚でしたが、母の身分が低かった為に、

あまり父に厚遇されず低い身分からの出発になります。

最初、遼西郡の諸軍都尉(しょぐんとい)の属官である門下書佐(もんかしょさ)に登用されました。

 

門下書佐は端役(はやく)ですが、公孫瓚は容姿が端麗で声も大きく物事の説明が上手でした。

それを見込んだ太守の侯氏は公孫サンに自分の娘を与えました。

さらに侯氏は、公孫サンに学問をさせようと、涿(たく)郡の盧植(ろしょく)の門下生にします。

この時に劉備や高誘(こうゆう)が塾で公孫サンと机を並べていたようです。

 

また、太守の劉氏が罪に連座して流罪になる時には、公孫サンは恩義があったのか、自ら志願して車の御者になり従者として世話をし

流罪先がベトナムに近い日南郡と知ると、山に登って米と肉を備え「あまりに遠い所に流されるので二度と帰れないかも知れません」と

涙ながらに先祖に報告し、その哀切に涙しない人はいなかったと言います。

 

この時は、護送の途中で赦免が下りたので公孫サンは故郷に戻りました。

 

 

 



鮮卑を撃破する鬼軍曹として大活躍

公孫瓚

 

その後、公孫サンは孝廉(こうれん)に挙げられ、中央に昇って郎を努めた後に故郷に戻り遼東属国長史(りょうとうぞっこくちょうし)に叙されました。

ここでの公孫サンは度々、国境を侵してくる鮮卑(せんぴ)を撃退する鬼軍曹(おにぐんそう)として活躍自分に10倍する鮮卑騎兵に包囲されても、亭の中に逃れて矛で応戦し

 

「お前達ィ!突出しなければ全滅するだけドォァ!覚悟を決めるんだァァ!」

 

そう言うと矛の両頭に刃がついた武器を振り回し、敵の包囲を突破しました。

この戦いで部下の半分が戦死しましたが、あまりの勇猛な鬼軍曹ぶりに公孫サンの名は鮮卑族の恐怖の的になり、しばらく国境は静かになります。

 

 

張巡の乱の平定に奮闘

公孫瓚

 

黄巾の乱による後漢の統治力の低下を受けて、中華の火薬庫である涼州で、辺章(へんしょう)韓遂(かんすい)が反乱を起こし十万の兵を集めます。

この時、張温(ちょうおん)が車騎将軍として、董卓(とうたく)孫堅(そんけん)などを副官にして討伐に向かいます。

中山太守の張純(ちょうじゅん)が志願して討伐軍に加わりたいと言いますが張温はこれを無視し遼東郡長史の公孫サンを抜擢しました。

 

公孫サンは嬉々として、幽州突騎3000を与えられ率いて従軍しようとしますが、この人事を恨んだ張純が、遼西烏桓(うかん)丘力居(きゅうりききょ)と組んで

反乱を起こします。

これは張純(ちょうじゅん)の乱と言い、漢民族も参加して10万規模に膨れ上がります。

 

もちろん、公孫サンは涼州に行くどころではなく反乱鎮圧を命じられ各地で反乱軍を鎮圧しますが、圧倒的多数の反乱軍に大苦戦し、

遼西の管子(かんし)城に再び包囲され二百日の籠城を経験、命からがら脱出しました。

 

戦いは5~6年続き、青州、徐州、幽州、冀州(きしゅう)が戦乱の被害を受けます。

公孫サンは手持ちの兵力と権限で可能な限り奮戦しますが、騎都尉(きとい)の公孫サンでは押し寄せる反乱軍を全て食い止めるのは不可能でした。

「これでは、どうにもならんッ!私兵を集めなくては・・」公孫サンは戦いながら投降兵などを吸収していき、1万人の軍団を纏めあげていきます。

こうして組織されたのが白馬の騎兵のみで組織された白馬義従(はくばぎじゅう)でした。

 

 

劉虞との対立、袁紹との戦い

劉虞との対立した公孫瓚

 

なかなか治まらない張純の反乱(公孫サンのせいではありません)に朝廷は、徳が高い事で有名な劉虞(りゅうぐ)を登用して幽州牧に任命します。

劉虞は、武力ではなく烏桓族の罪を許して、丘力居と張純を離反させようと画策これに対して、公孫サンは丘力居の降伏の使者を捕えて

処刑するなどして妨害しています。

 

ちょっと見ると、公孫サンが戦争中毒のように見えますが、5~6年も戦った公孫サンから見れば、多くの部下や人民を殺戮されてきた烏桓を

簡単に許すという事が出来なかったかも知れません。

 

「烏桓族を許すだってェ?あんた気は確かかァ、連中は徹底して攻撃して、

我々に逆らったらどうなるか体に教え込まないといかんのダァ!

物で釣っても、一時、大人しくなるだけで、また何かあれば暴れるんだゾォ!

漢のお偉いさんは、そんな事も分からんのかアァァ!」

 

こうして、対立した公孫サンと劉虞ですが、この頃は方向性の違いだけで深刻な対立には発展していません。

劉虞は公孫サンの意見も分かるが、ワシはワシのやり方で行くと考えていたようです。

 

しかし、その後、反董卓連合軍と董卓が対峙すると董卓は献帝(けんてい)の対抗馬としての劉虞を警戒して長安に呼び寄せようとします。

一方で、袁紹(えんしょう)も劉虞を皇帝に立てて献帝と並立させようとし劉虞に拒否されます。

 

その頃、献帝は洛陽に脱出する為に劉虞の息子の劉和(りゅうわ)を派遣しますが、これが、袁術(えんじゅつ)の領地を通る時に抑留(よくりゅう)されてしまいました。

袁術は劉和の要求と偽り、献帝を助ける為と称して、騎兵1000を送るように劉虞に命じます。

公孫サンは、これは袁術が兵力を奪う為に行う罠だと劉虞に忠告しますが、劉虞はこれを無視して騎兵を送ってしまいました。

 

公孫サンは、これで自身が袁術に疎まれるのを怖れ、公孫越(こうそんえつ)に騎兵1000を与え袁術に送ってゴマをすり、

逆に劉虞の兵力を奪う計画に加担しようとします。

これが劉虞に漏れ、以後、劉虞は不信の目で公孫サンを見るようになり関係が悪化していくのです。

 

公孫瓚特集

 

 

袁紹との戦い

袁紹を倒す袁紹

 

この頃、公孫サンは、反董卓連合軍に加担しようとして安平に駐屯していた韓馥(かんぷく)を撃破します。

ここで韓馥は、袁紹を頼って逃げ、ここから公孫サンと袁紹の戦いが始まります。

西暦191年に、公孫サンは、侵入してきた黄巾賊の残党、30万を2万の騎兵で撃破多くの物資と大量の捕虜を獲得しました。

 

かくして、一大勢力になった公孫サンは、配下の田楷、(でんかい)厳綱(げんこう)、単経(ぜんけい)を青州、冀州、兗州の刺史に任命して各地の長官も勝手に任命しました。

各地の長官を勝手に任命したという事は、それまで任命されていた人々を勝手に更迭(こうてつ)したという事です。

 

当時の県の長官は、地元の豪族から選ばれる事が多かったので必然的に公孫サンは、これらの地方の有力者を敵に回す事になります。

これについて、公孫サンは、

 

「豪族の子弟なんぞカスだ!連中はプライドが高く、俺が引き立てても、

どうせ自分の家柄で高位についたと勘違いして俺に感謝なぞせん」と言い

 

かわりに自分と血縁を結んだ、元占い師や絹商人、豪商と結び広範な権限を与えて領地の統治を任せました。

 

当時の群雄は、ライバルの袁紹も含めて、地方の豪族を上手く懐柔(かいじゅう)して、自分の勢力に取り込む事をしましたが、公孫サンはそうではなく、

任侠的(にんきょうてき)な義兄弟の繋がりでポストを埋めていったのです。

 

これは当時としては斬新でしたが、結局、公孫サンの首を絞める結果になります。

それは、対抗している袁紹に放逐した豪族が雪崩(なだれ)を打って加担する状況を産み出す事になったからです。

 

界橋まで進出した公孫サンは、袁紹と戦いますが、袁紹軍の麴義(きくぎ)の活躍で大敗、その後、袁紹軍の崔巨業(さいきょぎょう)により数万の兵力で故安城を

包囲されますが何とか守り抜き兵糧が切れて、袁紹軍が退却するのを巨馬水(きょばすい)の戦いで破りますが、戦いは二年程も継続し結局、公孫サンが敗れて

(けい)に退却しました。

 

この頃、公孫サンの部将として高唐にいた劉備は(りゅうび)曹操(そうそう)に撃破され、その後別府司馬として青州に田楷の応援に赴き

徐州大虐殺で窮地(きゅうち)にあった陶謙(とうけん)の救援として出陣、二度と公孫サンの下には還りませんでした。

 

ですが、劉備の組織には公孫サンの影響が色濃く反映されていると思います。

関羽(かんう)張飛(ちょうひ)孫乾(そんかん)簡擁(かんよう)のような古い部下は、劉備と兄弟のような紐帯(ちゅうたい)で結ばれ官位の昇進の仕方も諸葛亮(しょかつりょう)のような新参者よりは、

絶えず優遇されました。

 

徐州では、大商人の麋竺(びじく)と血縁を結び、その資金援助を受けたりするのは、公孫サンが血縁を結んだ豪商や元占い師、絹商人を厚遇したのに

似ています。

 

ただ、劉備は公孫サンと違い、地元の豪族を蔑ろにはしませんでしたし、むしろ荊州では豪族である諸葛亮を介して劉表(りゅうひょう)に取り入ろうとしたり、

冷遇された劉琦(りゅうき)を保護して味方につける等狡猾な所を見せています。

 

劉備は公孫サンの良い所は真似、ダメな部分は修正し反面教師にしたのかも知れません。

 

劉虞を殺害、易京城に籠城し最期を迎える

公孫瓚

 

薊は劉虞の本拠地に近く、すでに乱世である事もあり、公孫サンを警戒した劉虞は数万の軍勢で公孫サンを攻めようと画策します。

しかし、劉虞の幕僚の公孫紀(こうそんき)が公孫サンに通じていて計画を漏らしたので、公孫サンは選りすぐりの騎兵を選抜して奇襲をかけて劉虞の本隊を撃破

逃亡した劉虞を執拗(しつよう)に追いかけて捕らえ薊に連行して処刑しました。

 

後漢王朝に連なる劉虞を殺した事は、袁紹に公孫サン討伐の大義名分を与えます。

劉虞の部下は敵討ちに奔走し閻柔(えんじゅう)を仲間に引き込み、閻柔は烏桓と鮮卑からも援軍を得て、さらに袁紹軍の麴義と合流、

袁紹は劉虞の子の劉和を前面に打ち出して弔い合戦ムードを演出します。

反公孫サンで劉虞派と袁紹派が団結してしまったわけです。

 

すでに多くの豪族は、劉虞の仇討ちを標榜(ひょうぼう)する袁紹に集結していました。

公孫サンは何度も敗れ、とうとう本拠地の薊に戻れず、易京(えきけい)に10年分の兵糧を備蓄し5年間の籠城戦を戦い抜きますが、

最後には十重の城壁を破られて観念し、西暦199年、妻子を殺して自分も自決し波乱の生涯を閉じます。

 

公孫サンの悪意ある記述はどうして?

公孫瓚

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)では、劉備の兄貴分として善玉扱いされている公孫サンですが、逆に史実では、戦争は強いが部下に酷薄(こくはく)で冷酷な悪党扱いです。

 

例えば、王粲(おうさん)の英雄記には、公孫サンが晩年、人間不信になり、巨大な鉄の扉の本陣に籠り女ばかりを侍らせ、男は子供しか近づけず

物資の出入りは縄梯子(なわばしご)で行っていたとか、、

援軍を与えれば、兵士がそれをあてにして本気で戦わないという理由で、少しも部下を救援しなかったので、兵士は呆れて司令官を殺害して

その首を持って袁紹に降伏したともあります。

 

しかし、魏志公孫サン伝では、まるで違い、公孫サンが易京から撃って出て直接、黒山賊と連携して、袁紹を挟み撃ちしようと決断すると、

長史の関靖(かんせい)が、易京の将兵の精神的な支えは将軍なのに、あなたが出ていけば、易京城はたちまち陥落すると強く諫言(かんげん)し、

公孫サンは思い止まっています。

 

正史の記述での公孫サンは少なくとも味方には厚い信頼を受けており、また自ら城を出て敵軍を撃破する勇気を保持していて、

どう見ても、味方を見殺しにしたり、暗殺を怖れて本丸に籠ったりする臆病な将軍ではないのです。

だからこそ、袁紹は易京城の陥落に五年を要したのでしょう。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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