太祖・曹操のいとこにあたり、彼の覇業を両腕として支えてきた、夏侯惇・淵を筆頭とする夏侯氏は、魏国きっての名門です。
そして、夏侯淵の次男である夏侯覇は秀才ぞろいの夏侯一族にあって、特に弓馬の才に恵まれていた期待の貴公子でした。今回は家督こそ兄である夏侯衡が継ぎましたが偏将軍・右将軍を経て、征蜀護軍というVS蜀の総司令官の地位まで登り詰めた夏侯覇が、なぜ故郷魏を捨て敵である蜀へ亡命したのか、そのナゾを解明したいと思います。
この記事の目次
この恨み晴らさずにおくべきか!蜀に強い憎悪を抱いていた夏侯覇
そもそも、夏侯覇にとって蜀は219年の定軍山の戦いにおいて、父と弟・夏侯栄を死に追いやった、憎んでも憎み足りない相手のはず。自身も曹操のおいで大将軍の地位にあった曹真に付き従い、先鋒として蜀と対峙したもののこっぴどくやられ、危うく命を落としかけた苦い経験があります。
若き夏侯覇が蜀に強い憎悪と討伐への執着心を持っていたことは、想像に難くない…となれば彼がなぜ蜀に亡命したのか、ナゾは深まっていくばかりです。
夏侯覇が蜀へ亡命した理由その1 「司馬一族のクーデターへの危機感」
群雄が現れては消え、奸計・謀略が渦巻いていたこの時代、暗愚な君主を見限って鞍替えしたり、君主を謀殺して自ら天下に覇を唱えるなんてことは日常茶飯事でした。
順調に出世し蜀への雪辱に燃えていた夏侯覇にとっての転機は、司馬懿とともに3代皇帝を補佐してきた曹爽が、249年に司馬父子が起こしたクーデターによって、三族皆殺しに刑の処せられたことでしょう。
司馬一族による曹爽一派の粛清は苛烈を極め、血縁者はもちろん家臣や親しかったものにまで及びます。そして夏侯覇が従っていた曹真は曹爽の父、彼が身の危険を案じるには、十分すぎる理由といえるでしょう。
夏侯覇が蜀へ亡命した理由その2 「このままでは一族皆殺し…、もはやこれまで!」
とはいえ、曹爽と直接的な関りがなかった夏侯覇が地位を捨て、残された親族を危険にさらすことになる、敵国への亡命を決意するにはまだ弱い。
決定打になったのは夏侯覇の甥にあたる夏侯玄まで、司馬懿から中央に召し出されたことでしょう。「いよいよ邪魔な曹・夏一族を皆殺しにするつもりだな!」司馬一族の野心が、権力独占だけではなく帝位簒奪にあると見た夏侯覇は、征西将軍の地位をはく奪された夏侯玄へ使者を飛ばし、「共に蜀へ亡命しよう!」と誘いの手紙を出しましたが返事はなしのつぶて。
もはや夏侯玄は殺されているのでは、と彼はこの時点で思ったのかもしれません。
翌日早々に荷物をまとめた彼は蜀の都・成都に向け、一目散に逃げていくことになります。さて、夏侯玄はどうなったかといえば降格させられたとはいえ命までは取られず、叔父からの使者を速攻で一刀両断したのち、その首と手紙を司馬懿に引き渡し、何とかその場を乗り切っています。(254年に大逆罪で処刑)
夏侯覇が蜀へ亡命した理由その3 「劉禅の皇后生母が同族だったから」
疑心暗鬼の頂点に至った夏侯覇が、魏から脱出したところまでは理解できるものの、亡命先としてなぜ呉ではなく、父と弟の仇敵である蜀を選んだのか?という疑問がわいてきます。
理由はいたってシンプル、夏侯覇の従妹夏侯月姫は劉備の義弟・張飛の正妻にして、その娘は2代皇帝劉禅の皇后、そう親戚の「コネ」を頼りに蜀へ亡命したというわけ。
宦官・黄皓辺りが難色を示しましたが、結果として夏侯覇の選択は見事にはまり、蜀漢で厚遇され車騎将軍になった彼は姜維と共に「強敵」として、敢然と司馬一族の前に立ちはだかることになります。
三国志ライター酒仙タヌキの独り言
夏侯覇の没年は明らかになっていませんが、蜀志によると259年に左右の車騎将軍として、廖化と張翼が任じられたとされていることと、260年より前の段階で諡号を送られたと記されていることから、おそらくこの周辺にこの世を去ったものとみられます。
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