袁術は後漢(25年~220年)の末期の群雄の1人です。わずかな期間ではありますが「仲」(197年~199年)という王朝を建国して皇帝になっていました。
しかし、統治がうまくいかずに最後は曹操から派遣された劉備に討たれて、異腹兄の袁紹を頼る途中に亡くなります。今回は小説『三国志演義』をもとに袁術の最期を解説します。
皇帝に即位するも敗走
建安2年(197年)に袁術は後漢を否定して皇帝に即位しました。国号は「仲」です。皇帝の玉璽は孫策の父である孫堅が、かつて洛陽の井戸から見つけたものでした。
だが、まだ後漢は滅んでいないので、当然周囲の群雄や知識人は袁術の政治方針にはついていく気はありません。それどころか、みんなで力を合わせて袁術を攻撃しました。
建安2年(197年)に袁術は曹操・劉備・孫策・呂布の連合軍に敗走。これで徹底的な打撃を与えられて天下統一の覇権から脱落します。
建安3年(198年)には同盟を結んだ呂布を曹操に討たれてしまい袁術は孤立しました。
それどころか領地から部下の陳蘭や雷薄、さらに民が次々と逃亡しているので、もはや統治は不可能と判断。袁術は皇帝を辞任して異腹兄の袁紹が統治している冀州に亡命する決意を固めます。
劉備の奇襲
建安4年(199年)に亡命の準備を整えた袁術は領地を放棄しました。ところが、この時待ち構えていた人物がいました。
それは劉備です。彼は許昌で曹操と仲良くしていましたが、同時期に献帝の側近の董承から曹操の暗殺を持ち掛けられます。
あまり曹操とべったりしていると勘付かれる可能性が高いと考えた劉備は、袁術討伐をネタに許昌からの脱出を決意します。
ちょうど袁術の部隊に出くわした劉備は奇襲をかけました。想定外の事態に驚いた袁術軍でしたが、袁術軍からは猛将の紀霊が出陣。
紀霊は三尖刀(ギリシャ神話のポセイドンが持っているような槍)の使い手であり、関羽と互角の勝負をする人物です。
一方、劉備軍からは張飛が出ました。2人は10合余り渡りあいますが、最後は張飛の蛇矛が紀霊を突き倒します。関羽と互角の腕はどこに行ったのでしょうか?
こうして劉備軍の前に敗走した袁術でしたが、ここで思わずアクシデントに遭遇します。なんとかつての部下であり、現在は盗賊稼業をしている陳蘭と雷薄が袁術に奇襲をかけてきました。狙いは袁術が持っている金品や兵糧でした。
兵士・金・兵糧・・・・・・袁術は全てを失いながら逃避行を続けました。
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袁術の最期
ボロボロになりながらも袁術は袁紹のもとを目指します。ついてくるのは息子の袁燿・甥(正史『三国志』では従弟)の袁胤、料理人の男などです。途中でのどが渇いた袁術は料理人の男に向かって、「ハチミチ水を持ってこい!」と命令しました。
こんな時にまだ贅沢を言うのかと呆れた料理人は、「血ならありますよ、ハチミチなんてどこにあるのですか?」と皮肉を述べました。言われた袁術は己に人徳が無いことをようやく悟ったのか、そこで吐血して亡くなります。享年不明です。
三国志ライター 晃の独り言
以上が小説『三国志演義』での袁術の最期でした。小説では割とあっけなく描かれている袁術の最期ですが、これに脚色を加えたのがマンガ家の横山光輝氏でした。
横山氏は落ちぶれた袁術が一軒の農家に助けを求めるシーンを書きます。農夫は尋ねてきた相手が分からずに応対します。袁術は「帝の袁術だ。水を持ってまいれ」と命令しました。ボロボロになっても皇帝としてのプライドだけは捨てません。
袁術という名前を聞いた途端に農夫は袁術の目の前で水を捨てました。そして、「水ならたった今無くなりました」と嫌味を述べます。
さらに農民は「血なら体に残っているが、それ以外はみんなお前に吸い取られた」と言います。これは農民を散々苦しめた袁術に対しての小さな抵抗でした。それを聞いた袁術は自分の人徳の無さに気付いて血を吐いて亡くなります。筆者は横山『三国志』を読むと、袁術死亡が他のキャラよりもインパクトがありました。中学1年の時に読んでいて、悪いことをしたとはいえ、この死に方は可哀そうだなと感じました。
もう少し、まともな死に方を用意して欲しかったです・・・・・・
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