魏延が住んでいた荊州にいた有能な建安七子の王粲とは誰ですか?

2020年5月8日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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曹操から逃げ回る劉備

 

建安(けんあん
)
6年(201年)、曹操そうそう)に敗走した劉備(りゅうび)は荊州(けいしゅう)に逃げ込みました。荊州の劉表(りゅうひょう)は漢王朝の末裔を自称しているので、劉備も自身の名字が「劉」であることを利用して接触。

 

後継者を決めるのに困っている劉表

 

その結果、劉表から保護を受けることになります。劉表と劉備の関係は、劉表が亡くなる建安13年(208年)まで続きました。ところで荊州にはどのような人材がいたのでしょうか?

 

今回は劉表の荊州で養われた「荊州学派」の人物について解説します。

 

 

劉表の荊州安定政策

馬に乗って単身荊州へ赴く劉表

 

初平元年(190年)に劉表は朝廷の命令を受けて荊州に赴任。しかし、劉表が来たばかりの頃の荊州は非常に荒廃しており統治が出来る状態ではありません。

 

歴代皇帝の墓を暴こうとする韓遂の兵士

 

当時の荊州は「宗賊(そうぞく)」という連中が暴れていたのです。宗賊とは一族で悪さをする連中でした。劉表は蔡瑁(さい ぼう
)
・蒯越(かい えつ)の力を借りて宗賊を討ち取ります。

 

張羨

 

凶悪な宗賊を掃討したので荊州は平和になりますが、間もなく長沙太守(ちょうさたいしゅ)の張羨(ちょうせん)が反乱を起こします。反乱は建安5年(200年)にやっと平定されて、荊州は平和になったのでした。そこで劉表は学校を創設。各地から名高き学者を集めていきます。

 

荊州学派

カイ良、カイ越、蔡瑁に初めて会う劉表

 

劉表のもとには多くの学者が集まりました。後世では「荊州学派」と呼ばれる学者たちです。荊州学派は3つの世代に別れています。

三国志大学

 

(1)劉表が荊州長官に就任した初平元年(190年)から建安5年(200年)まで

(2)劉表が学校を創設した建安5年(200年)から亡くなる建安13年(208年)まで

(3)劉表が亡くなり学者が各国に散った建安13年(208年)以降

 

魏の皇帝になる曹丕

 

以上の3つの世代に別れています。多くの学者は劉表の死後、魏(220年~265年)または蜀(221年~263年)に移住しています。

 

建安七子 王粲と親族

王粲

 

荊州学派のメンバーに建安七子(けんあんしちし)の王粲(おう さん
)
がいます。王粲は兗州(えんしゅう)山陽郡(さんようぐん)高平県(こうへいけん)の出身であり、劉表とは同郷(どうきょう
)
関係です。また、祖父の王暢(おうちょう)は劉表の学問の師匠であり朝廷では高官(こうかん
)
に就いていました。

 

同年小録(書物・書類)

 

王暢が劉表にどのようなことを教えたのか、史料は何も語っていません。だが、当時は法律よりも儒学(じゅがく)が重んじられていたので、おそらく儒学だったでしょう。

 

何進に見切りをつける蒯越(カイ越)

 

王粲の父の王謙(おう けん
)
も朝廷の高官であり、大将軍の何進(かしん)から「姻戚(いんせき)関係を結びたい」と求められますが断っています。王謙が断ったのは、何故でしょうか?

 

何進

 

これは何進の前職にあります。何進は大将軍になる前は肉屋をしていました。現在では信じられないかもしれませんが肉屋というのは血で汚れることから、非常に卑しい職業とされていました。ちなみに医者・マジシャン・占い師も同列です。王謙が何進の要求を断ったのは職業差別からでした。昔はよくある話だったのです。

 

蔡邕からの評価

呉の孫堅

 

話を王粲に戻します。初平元年(190年)に朝廷を牛耳っている董卓(とうたく)に対して袁紹(えんしょう)・曹操(そうそう)・袁術(えんじゅつ)・孫堅(そんけん)が洛陽(らくよう)に攻め寄せました。その結果、董卓は献帝(けんてい)を長安(ちょうあん)に強制移住させます。王粲もこの時に同行しました。

ミニチュアで遊ぶ董卓

 

当時、董卓のお気に入りは蔡邕(さい よう)という人物でした。残虐な行いをした董卓でしたが、蔡邕の言うことだけは聞いていました。よほど魅力のある人物だったのでしょう。

 

賢人に会いに行く王粲

 

14歳の王粲は蔡邕に面会します。しかし王粲は決して頑丈な体の人物ではありませんでした。ヒョロヒョロで貧弱だったので周囲の人々から、ビックリされます。体育会系の部活に文系のタイプが入部して顧問が心配するのと同じです。だが、王粲と会った蔡邕は「王粲の才能は自分も及ばない」と評価して、自分の屋敷の書籍を全て譲ることにしたそうです。

荊州に行くも劉表からは認められず

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

初平(しょへい)3年(192年)に董卓は王允(おういん)と呂布(りょふ)により殺害。この時に王粲の恩人の蔡邕も董卓一派ということで処刑されました。

 

李カク(李傕)と郭汜

 

間もなく董卓の残党である李傕(りかく)・郭汜(かく し)が長安に攻め込み王允を殺害。長安は混乱に陥ります。そこで王粲は荊州の劉表を頼ります。祖父の縁故(えんこ
)
を頼ったのでした。

 

後継者をまだ決めれない劉表

 

ところが、劉表はヒョロヒョロした王粲を見て「こいつ、大丈夫かな?」と思ったらしく蔡邕のようには認めてくれませんでした。劉表のせいで王粲は不遇の荊州時代を過ごすことになります。

 

抜群の記憶力

劉備を警戒する王粲

 

王粲は記憶力が良かったらしく1度見た内容は忘れない体質でした。ある日、友人と一緒に歩いていると道端に石碑(せきひ
)
がありました。

 

「あなたは、この石碑の文章を暗記出来ますか?」と友人が尋ねると、王粲は「出来ますよ」とあっさりと答えます。

 

そこで王粲は後ろを向いてしゃべります。不思議なことに、しゃべった内容は1文字も間違えていませんでした。また、こんな話も残っています。王粲が囲碁の対局を見ていた時でした。何があったのか分かりませんが、碁盤が滅茶苦茶になる事件が起きます。

 

私の推測ですが負けそうになった人が碁盤をひっくり返したのでしょう。すると王粲は横から出てきて碁石を元通りの位置に戻しました。信じられないと思ったプレイヤーたちは、2度目の実験を行ってみると本当であることが分かりました。王粲はこの記憶力と蔡邕からもらった書籍をもとに、戦乱で失われた書籍の復興を行いました。

 

劉琮に降伏をすすめる

劉表死す

 

建安13年(208年)に劉表はこの世を去りました。後を継いだのは劉琮(りゅう そう)でした。ところがすぐに曹操が荊州制圧のために南下してきます。この時に王粲は劉琮を説得しました。詳細は正史『三国志』に注を付けた裴松之(はい しょうし
)
が史料として掲載している『文士伝(ぶんしでん)』に記されています。

 

劉琮

 

王粲は劉琮に対して自分を曹操と比較してどう思うか尋ねます。劉琮は「とても及ばない」と答えました。そこで王粲は降伏して一族繁栄を保つことをすすめます。中国では祖先祭祀(さいし
)
を絶やすことが、悪いことになっていますので劉琮は王粲の意見を入れて降伏します。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

どの時代の書物にも出てくる三流小説のような話です。案の定、裴松之は『文士伝』の内容そのものは信じていません。ただし、王粲が説得をしたことは陳寿(ちんじゅ
)
も記載しているので、この件に関しては間違いないようです。

 

建安七子になるも早死にする

曹操

 

王粲は曹操から可愛がられました。王粲は博学(はくがく
)
であったことから儀式などをする際は常に、曹操から質問を受けました。

 

陳琳

 

また、詩にも優れていたことから孔融(こうゆう)・陳琳(ちん りん
)
・徐幹(じょ かん
)
・応瑒(おうちょう)・劉禎(りゅうてい)・阮瑀(げんう)と並んで建安七子(けんあんしちし)と呼ばれました。

 

進軍する兵士a(モブ用)

 

劉表のもとでは報われませんでしたが、曹操のもとで花が開いたのでした。遅咲きの人生でした。しかし、それも長続きしません。建安22年(217年)に呉(222年~280年)の遠征に従軍しますが、その帰路に病気になり亡くなりました。享年41歳。従来のひ弱な体質が仇になったのです。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

王粲の息子2人は悲劇的な運命をたどります。建安24年(219年)に魏諷(ぎ ふう
)
が起こした反乱に加担したので連座して処刑されたのです。父が苦労して成し遂げた事業を一発で粉砕したのでした。

三国志を楽しく語るライター晃様

 

それどころか王粲の直系まで絶えたのでした。バカ息子たちとは、こういうのを指すのでしょうか?王粲が残した書物は親族である王業が受け継いだそうです。書物が残っただけでも私は幸いと思います・・・・・・

 

※参考文献

・野沢達昌「後漢末荊州学派の研究」(『立正大学文学部論叢』41 1972年)

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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