建安6年(201年)、曹操に敗走した劉備は荊州に逃げ込みました。荊州の劉表は漢王朝の末裔を自称しているので、劉備も自身の名字が「劉」であることを利用して接触。
その結果、劉表から保護を受けることになります。劉表と劉備の関係は、劉表が亡くなる建安13年(208年)まで続きました。ところで荊州にはどのような人材がいたのでしょうか?
今回は劉表の荊州で養われた「荊州学派」の人物について解説します。
この記事の目次
劉表の荊州安定政策
初平元年(190年)に劉表は朝廷の命令を受けて荊州に赴任。しかし、劉表が来たばかりの頃の荊州は非常に荒廃しており統治が出来る状態ではありません。
当時の荊州は「宗賊」という連中が暴れていたのです。宗賊とは一族で悪さをする連中でした。劉表は蔡瑁・蒯越の力を借りて宗賊を討ち取ります。
凶悪な宗賊を掃討したので荊州は平和になりますが、間もなく長沙太守の張羨が反乱を起こします。反乱は建安5年(200年)にやっと平定されて、荊州は平和になったのでした。そこで劉表は学校を創設。各地から名高き学者を集めていきます。
荊州学派
劉表のもとには多くの学者が集まりました。後世では「荊州学派」と呼ばれる学者たちです。荊州学派は3つの世代に別れています。
(1)劉表が荊州長官に就任した初平元年(190年)から建安5年(200年)まで
(2)劉表が学校を創設した建安5年(200年)から亡くなる建安13年(208年)まで
(3)劉表が亡くなり学者が各国に散った建安13年(208年)以降
以上の3つの世代に別れています。多くの学者は劉表の死後、魏(220年~265年)または蜀(221年~263年)に移住しています。
建安七子 王粲と親族
荊州学派のメンバーに建安七子の王粲がいます。王粲は兗州山陽郡高平県の出身であり、劉表とは同郷関係です。また、祖父の王暢は劉表の学問の師匠であり朝廷では高官に就いていました。
王暢が劉表にどのようなことを教えたのか、史料は何も語っていません。だが、当時は法律よりも儒学が重んじられていたので、おそらく儒学だったでしょう。
王粲の父の王謙も朝廷の高官であり、大将軍の何進から「姻戚関係を結びたい」と求められますが断っています。王謙が断ったのは、何故でしょうか?
これは何進の前職にあります。何進は大将軍になる前は肉屋をしていました。現在では信じられないかもしれませんが肉屋というのは血で汚れることから、非常に卑しい職業とされていました。ちなみに医者・マジシャン・占い師も同列です。王謙が何進の要求を断ったのは職業差別からでした。昔はよくある話だったのです。
蔡邕からの評価
話を王粲に戻します。初平元年(190年)に朝廷を牛耳っている董卓に対して袁紹・曹操・袁術・孫堅が洛陽に攻め寄せました。その結果、董卓は献帝を長安に強制移住させます。王粲もこの時に同行しました。
当時、董卓のお気に入りは蔡邕という人物でした。残虐な行いをした董卓でしたが、蔡邕の言うことだけは聞いていました。よほど魅力のある人物だったのでしょう。
14歳の王粲は蔡邕に面会します。しかし王粲は決して頑丈な体の人物ではありませんでした。ヒョロヒョロで貧弱だったので周囲の人々から、ビックリされます。体育会系の部活に文系のタイプが入部して顧問が心配するのと同じです。だが、王粲と会った蔡邕は「王粲の才能は自分も及ばない」と評価して、自分の屋敷の書籍を全て譲ることにしたそうです。
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