逆転勝利。私はシミュレーションゲームの「三国志」や「信長の野望」をしていたら、逆転勝利はせずに、逆転負けすることはいつもあります。画面に向かって「待ってくれ!」と叫ぶのに、相手は待ってくれません。コンピューターだから当たり前ですけど・・・・・・
さて、今回紹介するのは、1度は馬超に負けて屈辱を味わうも最後は逆転勝利した楊阜を解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
楊阜の進言
建安16年(211年)に涼州の馬超と韓遂は曹操に叛旗を翻しました。曹操は同年に漢中の張魯を討つために涼州を通ることを馬超たちに言ったのですが、彼らは通ったついでに討たれるかもしれないと脅威に感じたのです。
馬超・韓遂連合軍を曹操は迎え撃ち、内部分裂の計略により打ち破りました。撤退した馬超を曹操は追撃しますが運悪く河北で反乱が起きたので引き返すことになります。この時に、涼州刺史の韋康の参謀である楊阜が反対しました。
「馬超は韓信や英布のような男であり、異民族の心をつかんでいます。ここで撤退して馬超に対しての守備を怠ってはいけません」
韓信と英布は前漢(前202年~後8年)の初代皇帝劉邦を支えた功臣です。残念なことに曹操はこの進言を聞き入れずに、撤退してしまいました。楊阜はこの時、嫌な予感がします。
馬超の逆襲
建安17年(212年)に馬超は勢力を盛り返すと、再び曹操軍の領土に侵入してきました。彼を後ろ盾となって支援していたのは異民族だけではなく、五斗米道の張魯もいました。馬超は後漢(25年~220年)は後漢の名将である馬援を先祖に、盧植の師匠である大儒学者の馬融を親族に持っています。
また、家系図でたどると袁紹・袁術・楊彪・楊脩とも身内です。つまり馬氏一族は顔が広かったので、ちょっと声をかければすぐに兵力が集まるのです。
冀県の攻防戦
馬超と戦うことになったのは涼州刺史の韋康と参謀の楊阜でした。攻めてきた馬超に対して楊阜の従弟の楊岳が城壁から応戦します。
攻城戦は8か月に渡り続きますが決着はつかず、韋康軍も疲れてきました。いつまでたっても曹操からの援軍は来ないので、韋康は部下の閻恩を使者に立て城から脱出させます。だが、運悪く閻恩は途中で馬超に捕縛されて殺されました。閻恩は地元の名士であり韋康軍は大きな打撃を受けました。
韋康の降伏と死
建安18年(213年)、援軍の望みを断たれたので韋康は降伏する決心を固めます。ところが、楊阜はこれに反対します。
「これまでの功業を全て捨てて敵に降伏するのは不義です。私は絶対に降伏しません!」
ところが韋康は楊阜の意見に耳を貸さず馬超を迎え入れます。なんと韋康に待っていたのは死罪でした。馬超は韋康の降伏はウソに見えたのです。韋康と40人の部下が死刑になりました。不思議なことに楊阜は死罪を免れたのでした。逆に馬超から良く戦ったと誉められます。
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