諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)と言えば、消極的ととられがちな程に用兵には慎重な人です。
孔明は、もう少し頑張れそうでも不安があれば兵を引いて被害を抑える事に心を砕きました。
そればかりではなく、孔明は鎧なども工夫を施して、より防御力の高い鎧を発明したと伝承では伝えられています。
孔明が発明した、より防御力の高い鎧とはどういうものだったのでしょうか?
この記事の目次
孔明指令 命を大切に!を実践した鎧とは?
孔明が当時の上流階級の人間としては珍しく技術者を尊重したというのは、
(実は孔明は墨者(ぼくしゃ)だった!?意外すぎる6つの理由)という記事でも書きました。
そんな孔明は圧倒的に数で優勢な魏に対抗しようと槍の前身となる点鋼矛(てんごうぼう)という武器や、
古代のマシンガンである矢の自動発射装置、元戎(げんじゅう)などを発明しますが、武器ばかりではなく、鎧にも考慮を払っています。
それが筩袖鎧(とうしゅうがい)という上半身を覆う鎧です。
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弱点である脇の下を覆った筩袖鎧
筩袖鎧は、鉄の札を繋ぎ合せた鎧ですが従来の鉄鎧は肩当ての部分と
胴の鎧が分離していて、脇の下がガラ空きになっていました。
これだと、矛や戟を振り上げた瞬間に脇下が空き、そこを刺されてしまいます。
脇下は皮膚が薄く、心臓に近いので、ここを刺されると即死する可能性があります。
そこで、孔明が兵士の命を守るべく開発したのが筩袖鎧だと言われています。
(イラスト出典元:中国铠甲道具制造商)
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筩袖鎧が従来の鎧とは何が違うの?
筩袖鎧が従来の鎧とどう違うのかと言うと、これは、袖の部分までが、
鉄の札で覆われていて、胴鎧と肩当てが一体化しているのです。
これにより筩袖鎧を装備するものは、急所である脇下まで完全に鎧で覆われて
死亡率を下げる事が出来ます。
また、この筩袖鎧は、鉄兜と一緒になっていたようです。
(イラスト出典元:http://lancelot.servehttp.com/)
技術者孔明の意図
強力な武器を造り上げた孔明は、やがて、この武器を模倣して、敵も武器を
強化するのを見越して、防御力を強化する為に筩袖鎧を発明したのかも知れません。
袖の部分までを鉄の札で覆うのは簡単そうですが、当時の技術では難しい部分があり
それを改良して、欠点を克服した孔明は、やはり軍事技術というものに、
並々ならぬ関心を持っていたと言えるでしょう。
ただ、筩袖鎧は製造に手間がかかる為に値段が高く、一般の兵士までに
行き渡るという所まではいかなかったようです。
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悲報!孔明の筩袖鎧で戦死した殷孝祖(いんこうそ)
孔明の発明した筩袖鎧は、二十五石という強い弩の力でも射抜けないという
強い防御力を持っていました。
その為に孔明が没してから200年以上経った南北朝の時代でも用いられています。
南北朝の時代に、宋の殷孝祖(415~466年)は皇帝の窮地に駆けつけた功績を
賞賛され、この孔明の筩袖鎧帽を与えられます。
※帽とは鉄兜の事だと思われる。
調子づいた殷孝祖は前線に出るが・・・・
しかし、これに調子づいた殷孝祖は、周囲の人間が止めるのも聞かず、
いたずらに前線に出て敵の弓兵の集中攻撃を受けてしまいます。
この攻撃でハリネズミになってしまった殷孝祖は、戦死してしまうのです。
いかに孔明の安全設計の鎧でも、弓兵の集中攻撃を受けてしまっては、
鎧にも傷がつき、矢も通ってしまうでしょう。
このように鎧の性能を過信した殷孝祖は皮肉にも、その事で命を落として
しまう結果になったのでした。
三国志ライターkawausoの独り言
それにしても、孔明の設計の根底にある命を大切に思考は徹底しています。
ただ、兵を指揮しているだけでは、気づいても優先順位を下げてしまう。
無防備な脇の下をそのままにしないで、筒袖状に鉄の札を編んでカバーする
そこに、多くない蜀の人的資源を失うまいとする孔明の考えが見えてくる
そのように思えます。
今日も三国志の話題をご馳走様でした。