八王の乱が始まり、賈南風の画策によって司馬瑋が謀殺され、賈一族が政治の場に入ってくることになりました。
しかし優秀な人材も同時に入ってくるようになり、晋王朝に一時の平穏がもたらされます。ですがそこに混乱の嵐を巻き起こすのもまた、賈南風なのでした……と、いうことで。
今回は八王の乱の続き、逝かれたメンバーの一人、司馬倫のご紹介です。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきます。
趙王・司馬倫
司馬倫は司馬懿の九男であり、母親は柏夫人です。生年は不明ですが司馬懿の晩年に生まれた息子であり、そのため甘やかされたのか勉強嫌いで、成人しても読み書きができなかったと言われています。
そんな人物でも司馬一族、277年に趙王へと移され、安北将軍なども兼任し、軍事力を手に入れてしまいます。
司馬倫は性格にもやや難があり、甥っ子の司馬炎が皇帝となった際にその革衣(皇帝のお洋服)を盗ませようとしたという不始末を起こしていました。
この際に命令された人物は処刑されるも、皇帝の叔父であるためか司馬倫は無罪放免となります。
関連記事:【新解釈・三國志】NO斬首!と叫ぶ孔明、三国志で斬首はどんな刑罰
やらかしが尾を引きずる図
司馬炎が崩御した後、司馬衷によって征西大将軍に任命された司馬倫ですが、その役目は全うできず、異民族の不満から挙兵という事態を招きます。
これを鎮圧しようとするも戦いすらままならないまま時間は過ぎ、五年経って見るに見かねた朝廷が動きました。司馬倫は解任されるも初動で後れを取り過ぎているので後任も中々上手くいかず、やっと鎮圧できたのは四年後。
全ての責任が司馬倫にあるとは言いませんが、それでも二桁近い年数を浪費したのは大きすぎるやらかしと言わざるを得ないでしょう。
ここまでやらかしたにも関わらず司馬倫は特にお咎めなし、洛陽に入って皇太子の教育係になり、賈南風に取り入り始めました。
司馬倫では役不足?
皇后に取り入った司馬倫は、更に(分不相応な)出世を望みます。ここで望んだのは尚書令。以前に何をやらかしたのか忘れているかのような、もっと自分には責任ある仕事を任せて欲しい!というやる気満々の前のめり姿勢。
当然ながら却下。前のめり姿勢は評価されたとしても、国を背負って前のめりされてそのまま倒れられたのではたまらない。
しかし司馬倫は自分に重要なポストを与えなかった張華たちを逆恨みすることになるのでした。そしてこれがまた、後ほど影響してきます。
関連記事:【西晋の内乱】八王の乱・前編 司馬炎の一族と悪女賈南風の死因
関連記事:晋の天下統一は羊祜・杜預の2名がいないと不可能だった
賈南風、再び動く
さてここで恵帝・司馬衷とその皇后・賈南風の動きを見てみましょう。二人には四人子供がいましたが、その子供たちは全て女の子でした。
なので皇太子に立てられたの司馬イツは、側室の子。司馬イツは幼い頃から祖父である司馬炎に溺愛されていましたが、賈南風は(当然のように)この司馬イツが気に入りません。
今は皇后の立場であっても、今後はどうなるか分からない。自らが皇后になってからやりたい放題やったからこそ賈南風はその事をよく理解していたのでしょう。
賈南風は司馬衷が倒れたと司馬イツに伝え、見舞いに訪れた司馬イツに恵帝からの贈り物だと酒を無理やりに大量に飲ませ、泥酔させた司馬イツに司馬衷と賈南風を害そうとしているという書状を書かせました。
これを司馬衷に見せ、哀れ司馬イツは廃太子、そして暗殺されます。しかしこの強引なやり方は、賈南風の立場を崩す蟻の穴となったのです。
関連記事:苛烈な悪妻・賈南風はどうやって権力を握ったの?晋の皇后誕生秘話
関連記事:賈充の娘である賈南風はドン引きするほどの悪女だった
粛清される賈南風
少し時間を巻き戻しましょう。皇太子から一気に廃太子まで追い込まれた司馬イツの側近らは当然ながらブチ切れました。賈皇后を含めた賈一族を政治の場から取り除こうと画策、そして司馬イツを再び皇太子に、というクーデターの話が司馬倫に回ってきます。
司馬倫はこれに乗りました。しかしその上で部下の孫秀に進言され、とんでもないことをやり始めるのです。
「まずはこれを賈南風に密告」
「賈南風が司馬イツを殺してから動く」
こうして司馬イツは賈南風に暗殺されました……そして機は熟したとばかりに司馬倫は動きます。301年4月、司馬倫は恵帝の詔を偽造して梁王・司馬肜、斉王・司馬冏らとクーデターを起こします。
この偽造の詔は当然ながら疑われましたが、疑った尚書郎を切り殺して宮中に乱入。賈南風はここで一族諸共に処刑されます。ついでに過去に自分の能力が足りないと(正当な指摘の元)非難した張華らも処刑。
ここに賈一族と優秀な文官たちは消えたのでした。
関連記事:賈南風(かなんぷう)とはどんな人?司馬衷の妃となって晋王朝を滅亡の淵に叩き込んだ悪女
関連記事:劉邦はなぜ大粛清を行ったのか?劉邦の粛清を少し考えてみる
読み書きのできない皇帝、爆誕
後、司馬倫は恵帝から皇位を簒奪、しかし読み書きができないので仕事は孫秀に聞かないと何もできないというとんでもない皇帝が爆誕します。
皇帝となった司馬倫は人気獲得のために爵位をばらまきますが、これが正にばらまきで百姓や奴隷にも爵位を与えるという事態だったので、中央の人事は大混乱、朝出た勅令が夜には変わるという有様。
「司馬倫からもらった褒美は恥」とまで言われ、百姓にすら「司馬倫は天寿を全うできずに死ぬだろう」とまで言われる有様でした。当然ながらこんな簒奪者は討つべしと動きが起こります。
最初こそ善戦した司馬倫たちでしたが徐々に劣勢となり、朝廷側も「司馬倫と孫秀捕まえて降伏しよう」と考え始め、孫秀は処刑、司馬倫は立場は全部取り上げられるも命は……助かりませんでした。
よりにもよって実兄から復位した恵帝に
「もう今の内に倫もその子らも処刑した方が良い」と言われた司馬倫。
「孫秀が我を誤らせたのだ!」
と二度も叫んで毒酒を飲み、八王の乱三番目の王、司馬倫はここに消えました。
関連記事:遷都とは?中国の皇帝はイメチェン好き!遷都のメリット・デメリットも解説
関連記事:ボク皇帝の子孫です!人の名声を利用する借屍還魂とは?
プライドの高さだけは凄かった司馬倫
司馬倫は能力に欠けすぎるのにプライドだけは高い人物だったようで、
賈一族粛清の際に昔の恨みから他人を処刑することがありました。
これを実兄に咎められた際に
「私は水中のカニですら憎いのに人間はもっと許せない!(?)」
というブチ切れ方をしたという良く分からない逸話が残されています。
ただ一つ分かるのは、司馬倫は正に名家に生まれた「だけ」の存在であったこと。おのれに能力はなく、磨くこともなく、ただその名家という後ろ盾だけで生きていた。だからこそプライドが高かった、自分を愚弄する他人が、それが正当な理由であれ許せなかった。
しかし政治はそれだけでは成り立たなかった。その罪と責任すら最期まで他人に押し付けて、司馬倫は歴史の露と消えました。皇帝という役目すら背負うことのないまま消えた、そんな人物という印象です。
三国志ライター センのひとりごと
司馬倫は爵位は全てはく奪、司馬亮らのように名誉回復などもされないまま、歴史に記されています。司馬倫は結局、皇位簒奪者のまま終わってしまったのです。
そして司馬倫が人気獲得のためにばらまきした爵位は免官されたために中央の役職は空席が大量に……賈一族が粛清されても宮中の混乱は終わることがありませんでした。
まだまだ続く八王の乱、次回も更なる深みへ、とぷん。
参考:晋書列伝第十 列伝第二十九
関連記事:八王の乱とは?残念すぎる三国志の真の結末であり中国史上最も醜い争い
関連記事:司馬炎の政治力が三国時代を終わらせた!晋の創始者の政治から学ぶ「妙」