この二人は蜀との「狄道の戦い」で共闘することになるのですが、その闘いの後、二人は「忘年の交わり」を結んだとされます。この鄧艾と陳泰はどのような関係だったのでしょうか。先ずは簡単に二人のプロフィールから探ってみましょう。
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蜀を滅ぼした名将・鄧艾
鄧艾は貧しい家に生まれ、加えて吃音を持っていたため周囲に疎まれていました。12歳の時役所に出仕することになるのですが、そこでも出世のコースからは外れていました。
しかし鄧艾は地理や地形にとても詳しく、仕事の合間を縫っては山や沼地を見て、図形を書き、軍営の設置場所を地図に記入していたといいます。
その才能は都に行った際、当時の権力者司馬懿に見いだされ、鄧艾は手腕を発揮していくことになるのです。
農政に通じていた鄧艾は運河の開通や新規開墾など次々に建策し、実績を上げていました。
戦にも力を発揮し、諸葛亮の後を継ぎ魏への北伐を行った姜維を度々撃退しています。そしてついには意表を突くルートで蜀に攻め込み、その首都成都を陥落させることになるのです。
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名門出身サラブレッド陳泰
陳泰の父は魏の法制度を整え、人材登用に力を発揮した名臣「陳羣」です。母親は曹操の軍師として知られる「荀彧」の娘で、まさに名門のサラブレッドとして生まれました。
父陳羣が亡くなった際に後を継ぎますが、内政に力を発揮した父とは違い、軍事に活躍することになります。異民族「匈奴」と接する地の長官及び将軍に任命され、異民族の鎮撫にあたっています。
そこでは異民族に過酷な処置をすることはなく、愛情を持って接したとされ、異民族から畏敬の念を受けていました。
後に司馬懿が宮廷を牛耳る曹爽一派に対するクーデターを起こした際には、敗れた曹爽に降伏を勧めています。その後は蜀との最前線に派遣され、鄧艾らと共に姜維の北伐に対抗することになるのです。
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狄道の戦いで「忘年の交わり」を結ぶ
255年、姜維は再び魏への北伐を開始しました。魏は王経を派遣し、防衛にあたらせますが大敗し、多くの兵を失ってしまいました。王経は退却し、狄道城に籠りますが蜀軍に包囲されます。そこで救援に向かったのは鄧艾と陳泰でした。
結局は鄧艾と陳泰は姜維を撤退させることに成功します。そこで陳泰は鄧艾の才能にほれ込み、二人は「忘年の交わり」を結んだ、と言います。
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