鄧艾は魏の名将で、特に蜀を滅亡させた男として三国志末期には欠かせない武将です。その鄧艾は蜀征伐などの軍での活躍の他に、主に農業などの内政でも活躍しました。しかも現在中国でも人気があるそうです。
今回の記事ではそんな鄧艾の魅力に迫ってみます。
この記事の目次
鄧艾の魅力1 貧しい家から身をたてた
貧乏から成り上がった人物にはなにかと魅力を感じるものです。鄧艾の生まれも裕福な物ではありませんでした。
早くに父を亡くし、母親と二人で貧しい暮らしを強いられていました。加えて故郷を曹操に侵略され、のちに屯田として他の地域に移住させられることになってしまうのです。
そんな幼いトウ艾でしたが、12歳くらいの時に役所に出仕することに成功します。なんのコネもないわけで、役所に入れたのは相当な能力、魅力があったに違いありません。
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鄧艾の魅力2 吃音持ちながらも出世した
役所に入ったトウ艾でしたが、彼は「吃音」というハンデがありました。これは話をする時に同じ言葉を連続して言ってしまったり、無言が続いてしまうといった症状です。
この吃音のせいでトウ艾はあまり周囲とうまくいかなかったと言われています。しかしそんな彼にも趣味があり、それはいろんな土地を歩き回っては地図を作り、測量をして様々なことを書き込むことでした。これはのちに内政や軍を動かす際に役に立つことになるのです。
そして司馬懿に才能を認められ、出世していくことになります。現代中国でも吃音を克服した例として鄧艾の事が語られることがあるそうですよ。
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鄧艾の魅力3 農政に力を入れ、民の事を思った
鄧艾は自身の経験からか、「国の基本は農業」という考えを持っていたようです。
ある日司馬懿に「済河論」という書物を進呈しました。これは田地が良質であっても水が足りない土地で運河を建設し、水を引いて灌漑することにより多くの食料を収穫しようという計画を書いた本でした。
これは苦労時代にあちこちで地図を書いていたことが役に立ったと言えますね。実際、司馬懿はこの運河建設の提案を受け入れ、運河完成後は食料生産が増大し、また、運河は運送にも大いに役に立ったといいます。
将軍になってからも「国の富の源になる農業こそ国力増強の基本です。軍備も大事ですが、孔子曰く“食足りて兵足る”と。穀物を備蓄し、民を豊かにしたものにこそ、多くの恩賞を与えるべきです。」と、宮廷に提案しています。
また、自分が経験した屯田(民や兵を移住させ、農耕させること)も積極的に取り入れています。
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