

三国志演義において関羽千里行、五関六将破りと言えば関羽最大の見せ場とも言えるエピソードですね。しかし、関羽が破った5つの関所を順に辿っていくと、とんでもない道順になってしまいます。
実はこれには羅貫中のちょっとしたミスが関係しているのです。今回は五関六将破りのエピソードの裏側を筆者なりの考察を含めて紹介していきたいと思います。
関羽が五関六将破りをした背景
関羽がなぜ関所破りをしたのか、この当たりは知っている人も多いかもしれませんが、一応復習をしておきましょう。
曹操の庇護下にあった劉備は、袁術が袁紹と手を結ぶのを防ぐために曹操から兵を借りて出兵。無事に袁術を引き返させた劉備たちでしたが、許昌には戻らず徐州へ進軍し、太守の車冑を殺害して徐州を掌握。
そして劉備自身は小沛、関羽は劉備の奥方とともに下邳へ駐屯しました。このことに怒った曹操は兵を挙げて徐州へ侵攻。劉備は戦わずして逃亡し、冀州の袁紹の元へ。
関羽は奥方を守るために下邳に留まるも後に曹操に投降。曹操から厚くもてなされる関羽でしたが、劉備の行方が知れると恩を返して曹操の元を去ることにします。
この時、曹操から許可証をもらっていなかったために関所破りをしなければならず、最終的に5つの関所を突破し、6人の将を斬ったことから五関六将破りと言われるようになりました。
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関羽が破った5つの関所
ここで本題である関羽が破った関所について見ていきましょう。関羽は許昌を出発すると洛陽との間にある東嶺関へと進み、次に洛陽へ。そこから沂水関水関を抜けて(水関の誤りとも言われています)
滎陽に到達すると劉備のいる東郡を目指すために黄河の船渡し場へと向かいました。しかし、関羽のいた許昌から劉備のいる東郡を目指すならほぼ真北の方角へ向かうだけでよいのですが、関羽はいきなり許昌から北西の洛陽へと進み、そこから東へと転身しています。
当時は曹操と袁紹が戦っていたので、それを避けたとも考えられますが、それにしてもこの遠回りな道順はあまりにも不自然です。そのため、関羽は道に迷ったとか方向音痴だったという話が生まれています。
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そもそもスタート地点が違う
この問題は関羽が出発した場所を変えるとあっさりと解決します。その出発地点とは洛陽よりも西にある長安です。長安から袁紹領を目指すとなれば東へ向かわなければなりません。つまり、長安→洛陽→沂水関(おそらく汜水関のこと)→滎陽→東郡が正しい道順ということです。
「いやいや、曹操は許昌にいるのになんで長安からスタートなの?」と思われる方もいるでしょう。
これこそが最大の落とし穴。そもそも三国志演義は宋や元の時代に生まれた物語を統合して小説にしたと言われています。
その元ネタは明代以前に生まれた説三分などの講談や民間伝承、戯曲、さらには三国志平話などの書物です。
ですが、宋や元代に作られた話の中には、曹操の居城が長安になっているものがチラホラあります。三国志平話も同様で、関羽は長安を出発して劉備の元へ向かったことになっています。
つまり、羅貫中は物語によって曹操の居城が異なることを知らなかった、あるいは忘れた状態で三国志演義のエピソードを作ってしまったのではないかということです。その弊害として道順がメチャクチャな五関破りのエピソードが完成したと筆者は考えています。
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東嶺関の謎
長安を起点とすると全ての謎が解決するかと思いきや、第一の関所である東嶺関に謎が残ります。東嶺関は許昌と洛陽の中間あたりに位置する関所で、現在も旧跡が残っています。
位置関係では東嶺関は洛陽よりも東側にあるので、長安→東嶺関→洛陽だと不自然な道順になってしまうのです。しかし、東嶺関は架空の地名で正確な場所はわかりません。
現在の旧跡も後年になって作られた可能性があり、恐らく許昌から洛陽へ向かったと考えられているので、その中間にあると想定したのではないでしょうか。
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関羽と曹操が別れた覇陵橋の真実
五関破りに関連する旧跡の中には、曹操が関羽に餞別を送った「覇陵橋」があります。現在、この橋は許昌市郊外にあり、三国志ゆかりの地となっていますが、実は後漢時代にこの橋は存在していませんでした。
もともとは長安の東側にあった橋で、宋代に詠まれた「朝中措・襄陽古道覇陵橋」「少年遊・参差煙樹覇陵橋」などの詩の注釈に覇陵橋の所在が記載されています。
恐らくこの時期に覇陵橋を題材とした関羽の物語が誕生し、そこから曹操は長安を居城としていたという話が生まれたのではないでしょうか。また、許昌郊外にある覇陵橋は、もともと許昌から八里の位置にあったために八里橋と名付けられた橋が架かっていました。
それを明代末期に左良玉という将軍が覇陵橋にしたと言います。理由は八里と覇陵の発音が似ていること、そして許昌の近くであったことから故事の再現のために利用されたようです。このように現存する旧跡は後年になって作られたものがあるので、東嶺関も同様である可能性があります。
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三国志ライターTKのひとりごと
三国志演義と同時期に編纂された封神演義にも黄飛虎が五関を破るエピソードが出てくることからも、この時期に五関を破るという物語が出来た、あるいは流行った可能性があります。
もともと宋、元代に作られた物語には、「関羽が曹操の元を離れる話」と「関羽が蔡陽を殺す話」がいくつか描かれていますが、五関破りはその間を補填する話です。羅貫中は当時キャッチーだった物語を盛り込むことに必至になりすぎて、そこで発生する大きな矛盾に気づかなかったのではないでしょうか。
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