皆さんは、陳宮についてどうお考えでしょうか。
曹操を見限り、己の才を天下に知らしめようとした野心家?呂布に生涯を賭けたのに、その策を用いられなかった不遇の人物?
色々な陳宮像があるでしょうが、今回は今一度、陳宮という人物について振り返ってみたいと思います。
陳宮という人物
さて陳宮という人物ですが、正史に置けるその生涯は謎が多くあります。
まず陳宮といわれると呂布の軍師ポジション、としての方が有名ですが、それ以前は曹操に仕えていました。つまり曹操から呂布に主を鞍替えした、と言えますが、ここに陳宮の謎があります。
主を鞍替えしたことについて、その理由も原因も分かってはいないのです。このため、陳宮は三国志演義ではその理由が創作で描かれることになります。
関連記事:呂伯奢一家殺害事件とは?陳宮が曹操から離反した原因だったの?
関連記事:呂布の部下・陳宮は曹操を助けてはいなかった?魏晋世語のウソとは?
三国志演義での陳宮
三国志演義で陳宮は董卓暗殺に失敗して逃亡していた曹操と出会います。しかし一度は曹操を捕らえるも、曹操という人間に触れた人物は「この人こそ我が主」と思い、曹操と行動を共にするようになりました。
ですがその後、親切にしてくれた呂伯奢の家で起こった事件から曹操を見限ろうとするもそこまではできず、仕えはしてもどこか心が離れたまま、その離別を決定的にしたのが曹操と徐州の陶謙との戦い。
陶謙と交流があった陳宮は曹操を諫めるも聞き入れられず、遂にその下を離れることに決意。そして見出した最後の主こそ、呂布でした。
呂布軍での陳宮
さて三国志演義においても、正史においても陳宮は呂布の配下に収まります。ですがどうも呂布軍では陳宮は他の武将と不仲にありました。
その原因は呂布が劉備から徐州を奪った後、反乱が起きたことに起因します。
この反乱は高順によって鎮圧されるも、この黒幕は陳宮であったという供述があるのです。
この供述に陳宮は「顔を赤らめた」とされており、嘘の供述に怒ったのか、それとも真実を暴露されたから顔を赤くしたのかはわかりませんが、呂布はこれを不問にしました。
しかしこれ以後、陳宮と呂布たちに何らかの溝ができたのか、これ以後の陳宮の進言は却下されることが多く、最終的に敗北した陳宮はその才を曹操に惜しまれながら歴史から姿を消します。
関連記事:高順が鎮圧した郝萌の反乱の真の首謀者は袁紹・張楊だった?
関連記事:【陥陣営】高順が呂布に疎んじられた理由は性格の不一致だった
陳宮の能力に関して
このように、正史で見ていくとちょっと行動に謎が多い陳宮ですが、そのために三国志演義では創作シーンが挿入されることでよりキャラクター付けが引き立つなど、「想像」の面白さを提供してくれる人物でもあると思います。
しかし陳宮という人物はどのような力があったのか?に関しては、判断が分かれることでしょう。呂布に疎まれその才能を活かせないまま散った悲劇の人物とみるか。それとも曹操、呂布という人物と出会いながら己の才を活かすためだけに行動するあまり、結果的には何も残せなかっただけの人物とみるか……色々な解釈ができる人物だと思います。
ただ正史でもその最期を曹操に惜しまれていることもあり、筆者は陳宮という人物のしっかりとした「能力を持っていた」人物であると思います。
関連記事:陳宮と陳登の二人を呂布が用いれば曹操が滅亡してた?
関連記事:陳宮ってどんな人柄なんですか?正史『三国志』をもとに人柄を考察
荀攸の見解
ここでもう一つ注目して頂きたいのが、呂布と曹操の戦いである下ヒの戦い。これにおいて荀攸が「陳宮は知謀はあるが判断が遅い」と進言、陳宮の計略が決まる前に攻撃するようにと進言し、このために曹操は勝利を得ました。
ここで敗北したこともあって陳宮は良く「判断力がない」「決断力に欠ける」というマイナス面が強調されますが、逆転してみれば荀攸の判断は「陳宮が計略を決める前に早く行動しよう」と言っているのです。
つまり陳宮の計略を荀攸は警戒して早く動いたのですね。決断力、判断力にこそ劣るものの、その頭脳は荀攸が警戒するべき才覚を持っていたということになるでしょう。
関連記事:正史では活躍した荀攸はどうして三国志演義では目立たない存在に?
関連記事:裴松之の怒りの告発?賈詡を荀彧・荀攸と一緒にするな?
【次のページに続きます】