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馬超が長生きしていたら歴史は変わった?北伐のifストーリーを考えてみた

2021年10月16日


 

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燃え尽き症候群の馬超

 

三国志演義では蜀の五虎大将軍の1人に数えられる馬超(ばちょう)ですが、残念ながら47歳という若さで亡くなっています。

 

劉備軍に降伏する馬超

 

そのため、諸葛亮(しょうかつりょう)が行った北伐にも参加できておらず、劉備(りゅうび)に降ってから特に目立たないまま生涯の幕を下ろしました。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

馬超の不在が北伐で勝てなかった理由というのはあまりにも暴論ですが、馬超が長生きしていれば何かしらの変化があった可能性はあります。そこで今回は馬超が生存していたらと仮定して、第一次北伐の結果を考察していきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北伐の前提条件

板楯蛮(異民族)

 

まず諸葛亮の北伐には前提条件の中に異民族と協力がありました。これは劉備に献策した隆中策でも語られていることから、巨大な力を有する曹氏(そうし)一族の打倒には、荊州(けいしゅう)益州(えきしゅう)といった領地だけでは力不足であることがわかります。

 

北伐する孔明

 

ましてや諸葛亮が北伐を開始した頃には荊州を失っていたばかりか、劉備の入蜀から蜀漢建国に貢献した有能な臣下たちの多くがこの世を去っていました。

 

羌族に援軍してもらうよう使者を出す姜維

 

その状態で北伐の成功率を上げるためには、異民族という外部の力が不可欠だったわけです。実際、諸葛亮の北伐を引き継いだ姜維(きょうい)も羌族と力を合わせて戦っていることから、蜀の軍勢だけでは度重なる北伐を敢行することは難しかったことがわかります。

 

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馬超生存のメリット:異民族

羌族

 

羌族は涼州(りょうしゅう)一帯に居住していた異民族で、前漢時代から後漢末まで数百年に渡り反乱を起こし続けている部族でもあります。特に後漢時代には内モンゴルに巨大な勢力を築いた鮮卑よりも脅威の度合いが高かったとされています。

 

反乱を起こす羌族

 

馬超は祖父が羌族の女性を娶っているため、漢民族と羌族のクォーターということになり、その関係は浅からぬものでした。加えて、馬超の祖先は光武帝の時代に伏波将軍(混乱を鎮めるという意味)に封じられ中国大陸各地で異民族の反乱征伐を行った馬援(ばえん)と言われています。

 

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

馬援は涼州鎮圧でも大きな成果を上げ、その武名を全土に知らしめましたが、その子孫である馬超も同様に涼州付近に居住する羌族を中心に、異民族から一目置かれる存在だったようです。そんな馬超が北伐にも同行していれば、その名声を活用して反乱を起こさせることもできたでしょう。

 

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光武帝

 

 

馬超生存のメリット:戦力

行軍する兵士達b(モブ)

 

北伐において諸葛亮が悩まされたのが兵を率いる将の不足です。夷陵の戦いでの大敗や病死などで蜀は人材が足りていませんでした。

 

馬謖

 

もちろん、馬超1人で補えるようなものではありませんが、少なくとも一番大きな成果を上げた一次北伐の際に馬超が生きていたとしたら、街亭に赴いたのは馬謖(ばしょく)ではなかったのかもしれません。

 

魏の旗をバックに戦争をする郭淮は魏の将軍

 

あるいは高翔(こうしょう)に変わって列柳城(れつりゅうじょう)郭淮(かくわい)を防いでいれば、もう少し戦況も変わっていたでしょうし、蜀が南安、安定、天水の三郡を領有したままであれば、涼州の情勢は蜀に協力をする方向へ動いていた可能性もあります。

 

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馬謖

 

 

涼州の情勢

三国志のモブ 反乱

 

涼州は後漢時代に入ってから3度に渡り、「もう手に負えないから廃棄しよう」という提案がされるほど反乱が多発した場所です。古くは前述した馬援が一度目の涼州放棄案に反対し、討伐した羌族の住民を強制的に移住させることで兵力や奴隷の確保、さらには管理・統制をして治安の安定化を図りました。

 

鮮卑大人、育延

 

しかし、時代が変化していく中で漢民族が涼州へ居住し屯田を始めたことで、羌族の居住地が失われたばかりか、鮮卑(せんぴ)との戦のために徴兵されたことなどに不満を覚え反乱を起こします。

 

暴れまわる黄巾賊

 

後漢末期には黄巾(こうきん)の乱によって、政府が内乱の対処に奔走したことで涼州への恩賞は行き渡らなくなり、異民族だけでなく韓遂(かんすい)ら漢民族も含めた大きな反乱へと発展。

 

馬騰

 

その後も韓遂と馬騰(ばとう)が争う、馬超や関中の軍閥が反乱を起こすなど涼州は安定しない状態が続きます。つまり、現状を脱却したいと望む人たちが多く、蜀のように魏王朝という現体制を打倒しようという勢力に力を貸す土壌ができていたということです。

 

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潼関の戦い

 

 

馬超生存のifストーリー

蜀 武運を誇る馬超

 

以上のことを踏まえて馬超が生存していた場合のストーリーを考えると、諸葛亮は史実通り第一次北伐で祁山(きざん)へと進軍。そして天水、南安、安定の三郡が蜀へ投降します。

 

馬超の兜にフォーカス

 

諸葛亮は魏延(ぎえん)など経験豊富な将ではなく、なぜか馬謖を街亭に派遣しているので、これは変わらず馬超を列柳城に配置。街亭の馬謖と趙雲(ちょううん)の箕谷での敗退は既定路線となりますが、馬超が郭淮を防いで列柳城を死守したとしましょう。

 

張コウ 張郃

 

これによって諸葛亮は列柳城と祁山を拠点として防衛戦を展開し張郃(ちょうこう)の軍を防ぎます。その間に一番奥地にある安定郡は魏に取り返されますが、天水と南安は死守。その結果、救援が来ないことに不安を覚えた隴西郡(ろうせいぐん)も遅れて投降。

 

五虎大将軍の馬超

 

形成が蜀に傾いたことと馬超の呼びかけによって安定より北、さらに隴西より西の羌族が蜀に呼応します。魏軍は各地の反乱に備えて兵力を分散したところで、蜀軍は広魏と安定を落とし、続けて武威郡(ぶいぐん)金城郡(きんじょうぐん)といった涼州西部も掌握。

 

行軍する兵士達a(モブ)

 

益州と雍州の半分、そして涼州を領有し、さらに羌族の力を借りた蜀軍はそのまま長安へと流れ込みます。ただ、ここまで攻められると魏は全力で蜀を潰しにかかるので、総力戦になると兵力で劣る蜀が長安と漢中を同時に死守できるのか疑問です。

 

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

仮に馬超の名声が鮮卑や匈奴(きょうど)にも響いていたのであれば、并州(へいしゅう)幽州(ゆうしゅう)で反乱を起こさせ、魏の背後を脅かしたかもしれません。ただ、異民族の力を頼りにしすぎると魏を倒した後に収集がつかなくなるので、いずれにしても蜀の快進撃は長安で止まっていたでしょう。

 

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if三国志

 

 

三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

もう一つの可能性を述べると、潼関(どうかん)の戦いに破れた馬超が隴上の各地を攻めた際に、周辺の郡県は馬超に呼応したと言います。隴上は隴西、南安、天水、広魏など一帯を指すため、馬超が生きていれば諸葛亮が祁山に至った時点で隴西と広魏を含む雍州西部がまるごと蜀に降ったかもしれません。

 

また、劉備は馬超を驃騎将軍に加増する際の辞令書で「羌族、?族は君に服従し、葷鬻(くんいく)(匈奴)もその正義を慕うに至っている。その信義は北部において顕著であり、武威が明らかである」と言っています。

 

馬超の仲間入り

 

褒め過ぎな気もしますが、これが事実であるなら、馬超の呼びかけによって羌族や氐族(ていぞく)以外の異民族も蜀に味方をした可能性はあります。たった1人の存在が歴史を変えられるとは思いませんが、少なくとも北伐に馬超が参加していたなら対異民族という点で少し違った結果をもたらしたように思います。

 

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馬超特集

 

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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