三国志演義では蜀の五虎大将軍の1人に数えられる馬超ですが、残念ながら47歳という若さで亡くなっています。
そのため、諸葛亮が行った北伐にも参加できておらず、劉備に降ってから特に目立たないまま生涯の幕を下ろしました。
馬超の不在が北伐で勝てなかった理由というのはあまりにも暴論ですが、馬超が長生きしていれば何かしらの変化があった可能性はあります。そこで今回は馬超が生存していたらと仮定して、第一次北伐の結果を考察していきます。
北伐の前提条件
まず諸葛亮の北伐には前提条件の中に異民族と協力がありました。これは劉備に献策した隆中策でも語られていることから、巨大な力を有する曹氏一族の打倒には、荊州や益州といった領地だけでは力不足であることがわかります。
ましてや諸葛亮が北伐を開始した頃には荊州を失っていたばかりか、劉備の入蜀から蜀漢建国に貢献した有能な臣下たちの多くがこの世を去っていました。
その状態で北伐の成功率を上げるためには、異民族という外部の力が不可欠だったわけです。実際、諸葛亮の北伐を引き継いだ姜維も羌族と力を合わせて戦っていることから、蜀の軍勢だけでは度重なる北伐を敢行することは難しかったことがわかります。
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馬超生存のメリット:異民族
羌族は涼州一帯に居住していた異民族で、前漢時代から後漢末まで数百年に渡り反乱を起こし続けている部族でもあります。特に後漢時代には内モンゴルに巨大な勢力を築いた鮮卑よりも脅威の度合いが高かったとされています。
馬超は祖父が羌族の女性を娶っているため、漢民族と羌族のクォーターということになり、その関係は浅からぬものでした。加えて、馬超の祖先は光武帝の時代に伏波将軍(混乱を鎮めるという意味)に封じられ中国大陸各地で異民族の反乱征伐を行った馬援(ばえん)と言われています。
馬援は涼州鎮圧でも大きな成果を上げ、その武名を全土に知らしめましたが、その子孫である馬超も同様に涼州付近に居住する羌族を中心に、異民族から一目置かれる存在だったようです。そんな馬超が北伐にも同行していれば、その名声を活用して反乱を起こさせることもできたでしょう。
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馬超生存のメリット:戦力
北伐において諸葛亮が悩まされたのが兵を率いる将の不足です。夷陵の戦いでの大敗や病死などで蜀は人材が足りていませんでした。
もちろん、馬超1人で補えるようなものではありませんが、少なくとも一番大きな成果を上げた一次北伐の際に馬超が生きていたとしたら、街亭に赴いたのは馬謖ではなかったのかもしれません。
あるいは高翔に変わって列柳城で郭淮を防いでいれば、もう少し戦況も変わっていたでしょうし、蜀が南安、安定、天水の三郡を領有したままであれば、涼州の情勢は蜀に協力をする方向へ動いていた可能性もあります。
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涼州の情勢
涼州は後漢時代に入ってから3度に渡り、「もう手に負えないから廃棄しよう」という提案がされるほど反乱が多発した場所です。古くは前述した馬援が一度目の涼州放棄案に反対し、討伐した羌族の住民を強制的に移住させることで兵力や奴隷の確保、さらには管理・統制をして治安の安定化を図りました。
しかし、時代が変化していく中で漢民族が涼州へ居住し屯田を始めたことで、羌族の居住地が失われたばかりか、鮮卑との戦のために徴兵されたことなどに不満を覚え反乱を起こします。
後漢末期には黄巾の乱によって、政府が内乱の対処に奔走したことで涼州への恩賞は行き渡らなくなり、異民族だけでなく韓遂ら漢民族も含めた大きな反乱へと発展。
その後も韓遂と馬騰が争う、馬超や関中の軍閥が反乱を起こすなど涼州は安定しない状態が続きます。つまり、現状を脱却したいと望む人たちが多く、蜀のように魏王朝という現体制を打倒しようという勢力に力を貸す土壌ができていたということです。
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馬超生存のifストーリー
以上のことを踏まえて馬超が生存していた場合のストーリーを考えると、諸葛亮は史実通り第一次北伐で祁山へと進軍。そして天水、南安、安定の三郡が蜀へ投降します。
諸葛亮は魏延など経験豊富な将ではなく、なぜか馬謖を街亭に派遣しているので、これは変わらず馬超を列柳城に配置。街亭の馬謖と趙雲の箕谷での敗退は既定路線となりますが、馬超が郭淮を防いで列柳城を死守したとしましょう。
これによって諸葛亮は列柳城と祁山を拠点として防衛戦を展開し張郃の軍を防ぎます。その間に一番奥地にある安定郡は魏に取り返されますが、天水と南安は死守。その結果、救援が来ないことに不安を覚えた隴西郡も遅れて投降。
形成が蜀に傾いたことと馬超の呼びかけによって安定より北、さらに隴西より西の羌族が蜀に呼応します。魏軍は各地の反乱に備えて兵力を分散したところで、蜀軍は広魏と安定を落とし、続けて武威郡、金城郡といった涼州西部も掌握。
益州と雍州の半分、そして涼州を領有し、さらに羌族の力を借りた蜀軍はそのまま長安へと流れ込みます。ただ、ここまで攻められると魏は全力で蜀を潰しにかかるので、総力戦になると兵力で劣る蜀が長安と漢中を同時に死守できるのか疑問です。
仮に馬超の名声が鮮卑や匈奴にも響いていたのであれば、并州や幽州で反乱を起こさせ、魏の背後を脅かしたかもしれません。ただ、異民族の力を頼りにしすぎると魏を倒した後に収集がつかなくなるので、いずれにしても蜀の快進撃は長安で止まっていたでしょう。
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三国志ライターTKのひとりごと
もう一つの可能性を述べると、潼関の戦いに破れた馬超が隴上の各地を攻めた際に、周辺の郡県は馬超に呼応したと言います。隴上は隴西、南安、天水、広魏など一帯を指すため、馬超が生きていれば諸葛亮が祁山に至った時点で隴西と広魏を含む雍州西部がまるごと蜀に降ったかもしれません。
また、劉備は馬超を驃騎将軍に加増する際の辞令書で「羌族、?族は君に服従し、葷鬻(匈奴)もその正義を慕うに至っている。その信義は北部において顕著であり、武威が明らかである」と言っています。
褒め過ぎな気もしますが、これが事実であるなら、馬超の呼びかけによって羌族や氐族以外の異民族も蜀に味方をした可能性はあります。たった1人の存在が歴史を変えられるとは思いませんが、少なくとも北伐に馬超が参加していたなら対異民族という点で少し違った結果をもたらしたように思います。
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