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師簒とはどんな人?讒言した鄧艾と共に殺害?辻褄が合わない男の生涯

2021年6月2日


 

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無残な最期を遂げた姜維と鍾会

 

西暦263年の蜀征伐の成功は、これに参加した人々の運命を激変させました。鍾会(しょうかい)鄧艾(とうがい)姜維(きょうい)も死去し、蜀討伐の功労者は1人もいなくなってしまう有様です。

 

師簒

 

そんな中で鄧艾の副官だった師簒(しさん)も、また数奇な運命を辿りました。師簒は、鍾会や衛瓘(えいかん)と共謀して上官の鄧艾を陥れる事に賛同しながら最後は裏切った鄧艾と共に殺害されてしまうのです。今回は上官鄧艾を讒言で追放した副官、師簒について考えてみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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師簒とはズバリ!

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

では、最初に師簒についてザックリと説明します。

 

1 生没年不詳だが司馬昭の主簿として歴史に登場する
2 司馬昭の命令で蜀討伐に消極的だった鄧艾を説得する
3 鄧艾と共に剣閣を迂回し綿竹で鄧忠と諸葛瞻(しょかつせん)を攻撃し敗北。逃げ帰った後に鄧艾に剣を抜いて脅され、再度諸葛瞻と戦い諸葛瞻を斬る
4 諸葛瞻が死んだ事で劉禅は降伏を決意。蜀は滅亡。
5 鄧艾の独断専行を鍾会、衛瓘、胡烈(これつ)と弾劾し鄧艾を罪人として更迭
6 鍾会の乱鎮圧後、衛瓘に唆された田続(でんしょく)が鄧艾父子を綿竹の西で斬殺
7 世語によるとなぜか師簒も鄧艾と共に命を落とした

 

以上が、師簒についてのザックリとした内容です。ここからは、もう少し詳しく解説していきましょう。

 

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司馬昭の命令で鄧艾を説得し蜀討伐に向かう

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

師簒は生没年不明です。元々は司馬昭の主簿(事務官僚)でしたが、後に司馬昭の命令で鄧艾配下の司馬となりました。そして、当初、蜀征伐をまだ時期ではないと渋っていた鄧艾を司馬昭の命令で説得し、乗り気にさせたと晋書文帝紀(しんしょぶんていき)にはあります。

 

地理や地形に精通していた鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾が蜀征伐をどう思っていたのか正史三国志には記述がありませんが、晋書では慎重だったわけですね。また、師簒が鄧艾を翻意させた事が蜀の滅亡に大きく影響しているとも言えるでしょう。

 

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トウ艾

 

鄧艾、姜維を封じ込めようとするが失敗

剣閣で守りを固める姜維

 

263年師簒は鄧艾の司馬として出陣、鄧艾は狄道(てきどう)を通過して沓中(とうちゅう)で姜維を攻撃、雍州刺史の諸葛緒(しょかつしょ)祁山(きざん)を通過して武街に進軍して姜維の帰路を断ちます。さらに天水太守の王頎(おうき)に姜維の陣営を攻撃させ、隴西(ろうせい)太守の牽弘(けんこう)は姜維の前軍に攻め掛かり、金城太守の楊欣(ようきん)は甘松に向かいました。

 

討伐軍に参加する胡烈

 

その間に本隊の鍾会は、李輔(りほ)胡烈(これつ)らをひきいて駱谷を通って漢中を襲撃。その後、斜谷(しゃこく)に入ると李輔に命じて王含を楽城で包囲し部将の易愷(えきがい)に命じて蒋斌(しょうきん)を漢城で攻撃します。

 

鍾会は陽安関に直行し胡烈が関城を陥落させたので、姜維は戻れなくなる事を恐れて退却。諸葛緒の追撃を振り切って張翼、廖化と合流、天然の要害、剣閣に籠城します。

三国志 剣閣のお城

 

司馬昭プランでは、姜維を沓中から出さずに漢中を落として成都の劉禅をビビらせ降伏させるつもりでしたが、姜維を逃がした事で戦争は長期化が予想される事になりました。

 

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綿竹で鄧艾に斬られかけ発奮して諸葛瞻を討つ

諸葛瞻

 

ここで鄧艾は堅牢な剣閣を迂回し、険しい間道を通って成都を目指すプランを鍾会に提案し許可を得ます。

 

毛布に包まり崖を転げ落ちる鄧艾(トウ艾)

 

師簒も従軍し、崖を転がり下り、岩山を穿ってトンネルを開き、非常な苦労をして鄧艾軍は江由城に到着しました。

 

怒って田続を斬ろうとする鄧艾

 

漢晋春秋によると、江由城攻めでは、田続が手柄を立てたものの鄧艾が休息せず進軍を命じた事で口論になり、田続が斬られかけるハプニングが起きています。

 

師簒と鄧忠は「まだ出動するべきではない」と鄧艾に伝える

 

次に鄧艾軍は涪に到着し、後退した諸葛瞻を追い綿竹を攻撃しました。この時、師簒は鄧忠と共に諸葛瞻への攻撃を命じられましたが、敗退して逃げのび「賊はまだまだ手強いので討つべきではありません」と鄧艾に泣き言を言いますが鄧艾は

 

師簒と鄧忠の弱気な発言にブチギレ二人を斬ろうとする鄧艾

 

「ここが天下分け目の関ケ原ぞ、どうして勝てないなどと腑抜けた事を言うのか!」と二人を叱り、剣を抜いて斬ろうとします。(田続に続いて2度目)

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

驚いた2人は戦場に逃げ戻り、再度諸葛瞻とぶつかり今度は撃破して諸葛瞻と尚書張遵の首を斬りました。こうして鄧艾軍が雒に到着すると劉禅は抗戦意欲を失い、玉璽を返還して降伏しました。

 

師簒は諸葛瞻を斬る事で、蜀の降伏を決定的なものにしたのです。

 

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師簒、胡烈や衛瓘と共に鄧艾を嵌める

鍾会に謀反の疑いを讒言され処刑される鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾が蜀を滅ぼすと師簒は鄧艾により益州刺史に任命されます。しかし、この後、鄧艾の独断専行が酷くなると、手柄を鄧艾に奪われた鍾会が衛瓘や胡烈、師簒を呼び出して鄧艾を更迭すべきではないかと相談します。

 

鄧艾(トウ艾)と共に謀反の疑いで捕まる鄧艾と鄧忠(トウ忠)

 

ここで師簒は胡烈と共に鄧艾に冤罪を被せて更迭する事に協力したそうです。自分を益州刺史に任命してくれた鄧艾をどうして?その動機については正史三国志にはありません。

 

田続は鄧艾に恨みを抱えており暗殺

 

田続については前述の通り、江由城を攻略した際に軍の方針の違いで鄧艾に斬られかけた恨みというのがありますが師簒については動機が不明です。あるいは本当に鄧艾は独断専行に過ぎると言う印象を師簒が持っていたとも考えられます。

 

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経緯不明、鄧艾と死んだ事になった師簒

白湯を吐いて鍾会の警戒を解く衛瓘

 

鄧艾を更迭して、その軍勢を自分のものとした鍾会ですが、鍾会が独立を標榜すると胡烈と衛瓘は、そこまでついていけず鍾会排除を考えます。

 

鍾会に成都城内の政庁に監禁された胡烈は、当番兵に耳打ちして鍾会が独立に邪魔な魏兵を皆殺しにしようとしていると嘘の情報を伝え、衛瓘は仮病を使って瀕死の病人に見せかけ、鍾会の警戒を解いて成都城から脱出します。

 

洛陽城

 

衛瓘は魏兵を率いて謀反人の鍾会を討てと叫び、胡烈のデマを信じた魏兵は成都の城壁を乗り越え胡烈を解放、鍾会と姜維を殺害して乱を鎮圧したのです。

 

鍾会が死んだ事で鄧艾は無実という事になり、鄧艾の兵が鄧艾の護送車を引き戻しに向かいます。しかし、一度鄧艾更迭に協力した衛瓘は、鄧艾に恨まれるのを恐れ田続を呼び出して、恨みを晴らすように嗾けて、綿竹の西で鄧艾と鄧忠父子を殺害する事に成功しました。

 

田続をけしかけて鄧艾と鄧忠を殺害する衛瓘

 

そして師簒ですが、ここから正史三国志から名前が消え、裴松之(はいしょうし)が補う世語によると師纂もまた鄧艾とともに死んだ。師纂の性格はせっかちで温情は少なく、死んだ時には、全身をくまなくズタズタに切り刻まれていたと素っ気なく書かれています。

 

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師簒に何があったのか?

表情 kawausoさん02

 

これは奇妙な話です。鄧艾と共に護送車に載っていたならまだしも、鄧艾を罪に落して衛瓘や田続の側にいた筈の師簒がどうして鄧艾と同じ運命を辿っているのでしょう。

 

師簒は衛瓘の裏事情を知り過ぎたていたため疎まれていた

 

推測ですが、師簒は衛瓘から全てを知り過ぎた邪魔な存在と疎まれていて、田続と共に鄧艾を消すように命令を受けるも衛瓘から(師簒も消すように)と言い含められていた田続により事故に見せかけて殺されたのではないかと思います。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

上官である鄧艾の更迭に加わりながら、鄧艾と共に切り刻まれたというあべこべな記述で人生を終える師簒。これは絶対に背後になにかあると思いますが、今となっては確認する術もありません。

 

蜀の滅亡という三国志の一大エポックメイキングでは、それぞれの野心や保身や欲望が錯綜し、巨大な陰謀が横行するものなのでしょう。師簒は残念ながら、その陰謀の大波を乗り越えられなかったのだと思います。

 

参考文献:正史三国志 晋書文帝紀

 

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鍾会の乱

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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