「卑弥呼」と言えば教科書にも出てくる女王ですよね。しかし、その正体は謎に包まれており、実在さえも疑われるほどです。その卑弥呼、日本側には資料はなく、実は正史「三国志」に名前が出てくる人物なのです。
今回の記事は卑弥呼の正体を探り、「三国志」での記事も紹介しましょう。
この記事の目次
卑弥呼は「三国志」の何処に書かれているの?
「卑弥呼」が書かれているのは正史「三国志」の「魏書」30巻「烏丸鮮卑東夷伝」に登場します。独立した伝記が書かれているわけではなく、「倭人」として東方の異民族を紹介する「東夷伝」の中に記事があり、その記事は通称「魏志倭人伝」と言われています。
記事では当時の「倭国」、今の日本に存在したという「邪馬台国」についての位置、習俗、周辺の国々について触れられており、3世紀の日本についての貴重な資料となっています。
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「卑弥呼」はどんな人物だったのか?
「倭人伝」によると当時の日本は男王が立っていましたが、国が乱れ、卑弥呼を擁立することにより国は治まったといいます。
卑弥呼は「鬼道(詳細は不明)」を使い人々を惑わし、人前には姿をみせず弟のみが会う事が出来ました。
卑弥呼は238年ころから何度か「魏」に使者を派遣し、多くの宝物と「親魏倭王」の称号をもらう事が出来ました。また、卑弥呼率いる「邪馬台国」は南にある「奴狗国」と争いを繰り広げており、魏は激励の為か邪馬台国に使者を派遣しています。
卑弥呼がいつ亡くなったのかはわかりませんが、大きな墓が作られたといいます。卑弥呼の死後は男王が立ちましたが、再び国が乱れ、「壹與」と呼ばれる卑弥呼の親戚の13歳の少女を王にたて、国は落ち着いたといいます。
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その他の卑弥呼について書かれた史書
先述の通り、正史「三国志」や「後漢書」に卑弥呼の名前が見られ、それを参考にしたとみられる、「晋書」「隋書」「北書」など中国の史書に度々卑弥呼は登場します。また、朝鮮半島の史書である「三国史記」にも卑弥呼の記述があり、「倭国」は何度か朝鮮半島の「新羅」と戦いを繰り広げています(邪馬台国の事かは不明)。
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卑弥呼は実在したのか?日本側の資料は?
日本に存在する最古の史書は「日本書紀」ですが、そこには「卑弥呼」や「邪馬台国」の記述はありません。しかし、日本書紀の「神功皇后」の巻に「魏志倭人伝によると倭の女王が魏に使者を送った」との記述があるため、「日本書紀」の編纂者は魏志倭人伝の「卑弥呼」の記述を見ていることになります。
ただ、日本書紀の編纂者が「神功皇后」と「卑弥呼」の関係をどのように推測したのかはよくわかりません。「神功皇后が卑弥呼」と考えたのか、「“三国志”にて魏に倭国が使者を送った、と書いてあるので引用したけど、卑弥呼が誰だかわからない」と思っていたのか、「日本書紀」の曖昧な記述からはよくわかりません。
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卑弥呼実在の証拠はあるのか?
日本側の資料には卑弥呼実在の証拠は無いので、「三国志」に書かれた物証を探すしかありません。それは「邪馬台国」に送られたという「親魏倭王」の金印や「銅鏡100枚」が日本の何処からか見つかれば、卑弥呼実在の証拠になるでしょう。
しかし、そもそも邪馬台国がどこにあったのか分からず、かなりの大きさだと思われる卑弥呼の墓がどこだかわかりません。「卑弥呼の墓」と推定されている古墳は代表的なものに「箸墓古墳(奈良県)」などがありますが、宮内庁によって「陵墓」として管理されており、十分な発掘調査ができず、証拠は発見できていません。
また、発掘がされた遺跡でも卑弥呼の実在を証明する決定的なものはありませんでした。ただ、中国製とみられる銅鏡が見つかった遺跡(石塚山古墳、福岡県)もあり、追加調査が待たれます。
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