三国志には数多くの英傑たちが出てきます。そしてそれを受けての三国志演義ももちろん数多くの英傑が出てきますし、更に読みやすくまとまっているのが特徴です。
そんな三国志演義と並ぶ中国四大奇書の一つが、水滸伝。この水滸伝にも三国志、三国志演義で見たことのある英傑たちがいくつも出てきますが……なんと実は、そこにあの漢中の覇者、張魯の子孫がいたことはご存知でしょうか。
今回は水滸伝と張魯の関係について、お話したいと思います。
この記事の目次
水滸伝は中国四大奇書の1つ
さて水滸伝に関して軽―くおさらいをば。水滸伝は中国が栄の時代、宋江を首領とする36人が梁山泊近辺で反乱を起こしたという一件から生まれたとされるお話です。三国志が三国志演義となったような経緯ですね。
現在ではこの水滸伝は三国志演義、西遊記、金瓶梅と一緒に中国の「四大奇書」とされています。因みに金瓶梅は水滸伝のスピンオフ作品で、三国志演義や水滸伝とはまたひと味違ったお話となっていますね。
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【中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説】
水滸伝は龍虎山の張天師を洪信が訪ねて始まる
では水滸伝の最初も最初、始まり部分をちょっと見てみましょう。
ある年、疫病が蔓延しました。人々は苦しみ、朝廷もこれを何とかしようとするも、二進も三進もいきません。そこで人でどうにもできなくなった時は神の領域、ということでとある仙人に祈祷を頼みます。この時に派遣されたのが洪信という人物ですが、彼が向かったのが「竜虎山の張天師」の所です。
この後色々あって洪信がやらかして封じられていた一〇八星が世に解き放たれますが……とりあえずそちらはまた別のお話。
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時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記」
五斗米道の三代目教祖である張魯
ここから三国志に話を戻しましょう。三国志ででてくる漢中を治めた人物が張魯です。彼の祖父は五斗米道という宗教の開祖であり、これは祖父から父、そして張魯に受け継がれ、張魯はこの五斗米道の教祖という立場でした。
この宗教に目を付けたのが益州の劉焉で、彼は五斗米道を取り込むことで自制力の強大化を図ります。そして張魯に兵を与えて漢中を手に入れようとするのですが……。
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劉焉から独立し漢中で繫栄する五斗米道
しかし張魯は漢中を奪取すると、そこで独立。更には五斗米道は、そして張魯は漢中で善政を布いたことも相まって、漢中の人々から受け入れられてしまうのです。劉焉が五斗米道を取り込もうとしたのは、間違いではなかったのでしょう。しかし劉焉には張魯は取り込まれず、よりにもよって漢中を奪われてしまいます。
また張魯が漢中に受け入れられたため、朝廷でも手出しできず、後に曹操が漢中にやってきて張魯が降伏。で曹操は張魯を気に入り、魏伝にその名を残す存在となったのでした。
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張魯の子供たちは曹操に取り立てを受ける
曹操は漢中に攻め入った際に、張魯が宝物庫を「これは国の物である」として焼いたりしなかったことに感じ入り、張魯を鎮南将軍に任命しました。とは言え、張魯自体は216年にはこの世を去っています。
年齢や死因は定かではないのですが、張魯が独立したのは劉焉が亡くなった194年頃とすると、この時から22年。この年に30歳として52歳。若いと言えば若いですが、時代を考えればそこまでおかしい年齢での死ではないとも思います。
因みに張魯は奥さんお妾さんが合わせて10人ほどおり、8人ほど子供がおりました。子供たちは曹操によって採り立てられたと言います。
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