西暦200年、それまで曹操(そうそう)とは小康状態を保っていた華北の雄袁紹(えんしょう)は、ついに重い腰を上げ、曹操(そうそう)の討伐に向かいます。
その兵力は17万人、一方の曹操(そうそう)は15万人を動員しました。袁紹(えんしょう)軍は、手始めに黄河を挟んで対岸にある白馬を守る曹操(そうそう)軍の劉延(りゅうえん)に襲いかかりました。
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攻撃の先鋒隊を務めた顔良(がんりょう)
その攻撃の先鋒を勤めたのが袁紹軍随一の猛将顔良(がんりょう)でした。曹操(そうそう)軍が、顔良(がんりょう)の苛烈な攻撃に耐えている時に、関羽(かんう)は、赤兎馬に跨り、青龍堰月刀を引っ提げて顔良(がんりょう)の前に立ち塞がります。
関羽(かんう) vs 顔料(がんりょう)
「何を小癪な、そこをどかぬかーー!!」
顔良(がんりょう)が押しまくっている余勢を借りて、関羽(かんう)に突進した瞬間、顔良(がんりょう)の首は、血煙をあげて遥か上空に跳ね上がっていました。関羽(かんう)は、これを造作もなく拾い上げて袁紹(えんしょう)軍の将兵に見せます。総大将が討ち取られてパニックになった袁紹(えんしょう)軍は総崩れになり、白馬の劉延(りゅうえん)は窮地を脱しました。
袁紹(えんしょう)2枚看板の文醜(ぶんしゅう)を派遣
顔良(がんりょう)が斬られた事を知った袁紹(えんしょう)は、直ちに顔良(がんりょう)の親友で武勇は顔良(がんりょう)に勝ると言われる文醜(ぶんしゅう)を派遣します。
文醜(ぶんしゅう)は崩れた兵力を立てなおし、黄河を渡って延津(えんしん)という土地に軍を集結させようとします。そこに曹操(そうそう)軍の、張遼(ちょうりょう)、そして徐晃(じょこう)が向かってきます。
流石は文醜(ぶんしゅう)、顔良(がんりょう)を上回る力で二人の将軍と互角に打ち合い、全く引けを取りません。
その時、白馬から急いで、延津(えんしん)まで戻ってきた武将がいました。そう関羽(かんう)です、律儀なモノで徐晃(じょこう)や張遼(ちょうりょう)の応援に来たのです。
関羽(かんう)加勢する
「貴様が関羽か?友の仇、討たせてもらうぞ、うおおおお!!!」
関羽(かんう)を見るや、文醜(ぶんしゅう)は激怒して矛を振りまわし、突進してきます。しかし、関羽(かんう)は全く怯まず、それを難なくかわし気合い一閃、青龍堰月刀を打ち下ろしました。その勢いの凄まじさに文醜(ぶんしゅう)は支えきれず、背中を見せて逃げます。ところが赤兎馬を駆る関羽(かんう)に追いつかれ背後から真っ二つに斬られました。
「ひえええ、何という強い武将だ、、」「逃げろ皆殺しにされるぞおお」
文醜(ぶんしゅう)が討ち取られたのを見た袁紹軍兵は先を争って黄河に飛び込み、その後を曹操(そうそう)軍は、簡単に追い詰めて殲滅してしまいました。
前哨戦は曹操(そうそう)軍の勝利
こうして、曹操(そうそう)対袁紹(えんしょう)の前哨戦は、関羽(かんう)の大活躍により、曹操(そうそう)軍の大勝利となったのです。
関羽(かんう)は義兄弟の劉備(りゅうび)が袁紹(えんしょう)軍にいること知る
関羽(かんう)は、この時の戦いで劉備(りゅうび)が鄴という袁紹(えんしょう)の支配都市に居る事を知り顔良(がんりょう)、文醜(ぶんしゅう)の二将を斬った事で恩は返したと考え、曹操(そうそう)の下を離れる事になります。因みに三国志の正史では関羽(かんう)が斬ったのは顔良(がんりょう)だけで文醜(ぶんしゅう)は斬っていないとされています。
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