三国志には、劉備(りゅうび)と孔明(こうめい)、曹操(そうそう)と荀彧(じゅんいく)のように、肝胆相照らす名コンビの君臣が存在します。その中には、劉備と孔明のように、殆ど対立する事もないような仲睦まじい君臣もいれば、曹操と荀彧のように、最期には決定的な対立に至る君臣もいます。しかし、そんな中でも子供染みた喧嘩をする君臣と言えば、孫権(そんけん)と張昭(ちょうしょう)の右に出るものはないでしょう。
この記事の目次
張昭(ちょうしょう)ってどんな人?
張昭は字を子布(しふ)といい、西暦156年生まれ、年齢としては、曹操より一歳下なので、孫権とは、25歳違う事になります。張昭(ちょうしょう)は、当初は陶謙(とうけん)に誘われましたが、それを拒否、逆恨みした陶謙(とうけん)は、これを投獄しますが、趙昱(ちょういく)という同僚が必死で弁護したので出獄できたそうです。
張昭(ちょうしょう)、孫呉に仕う
その後、張昭(ちょうしょう)は、小覇王、孫策(そんさく)に仕え、孫策の死後は弟の孫権(そんけん)に仕えます。孫策に病床で孫権の事を宜しく頼むと遺言された張昭は以後、駄目なものは絶対に駄目と言い切る頑固者ぶりを発揮します。
張昭(ちょうしょう)を謹慎処分させた孫権(そんけん)
張昭(ちょうしょう)は、あまりにも諫言がヒドイので、孫権はこれを疎んじて、ある時に、張昭を謹慎処分にした事があります。謹慎は中々解けませんでしたが、蜀から使者が来た時の事、彼は蜀がいかに素晴らしい国であるか自慢しました。ところが、呉の臣は、これに対して呉の素晴らしさを挙げる事が出来ず孫権は、面目を潰してしまいます。
「ううむ、、張昭がいてくれれば、あんな蜀臣の好き放題にはさせてはいなかったものを、、」
孫権は直々に使者を遣わして張昭の謹慎を解きます。
張昭(ちょうしょう)と孫権(そんけん)は和解をする
孫権と張昭は、お互いに謝罪して和解しましたが、その時も、張昭は、今後も諫言は止めないと断言しました。序盤は、痛み分けという所でしょうか、、
第2ラウンド勃発
第二ラウンドは、西暦232年に起きました。北方の公孫淵(こうそんえん)という人物が、呉に帰順すると言ってきたのです。孫権は喜び、彼を燕王に封ずると言うと、張昭が猛反対します。
「公孫淵は、二枚舌の大嘘つきです、口先では呉に帰順すると言っても魏に懐柔されればあっさり裏切るに違いありません今、燕王の位を与えると必ず後悔しましょう」
孫権は、気分を害して張昭をなじりますが、張昭は、孫策と呉婦人(孫権の亡母)に孫権を託されたのだから何を置いても諫言すると聞きません。
怒りの孫権、張昭を斬ろうする
怒り心頭に達した孫権は自ら剣を抜いて、張昭を斬ろうとします。しかし、張昭は逃げるどころかその前に立ち塞がりました。
「この老いぼれを斬って、呉君が迷いから醒めるなら張昭、生命は要りませぬ、さあ、お斬りなされ!!」
張昭が、泣きながら言うと、孫権も涙をボロボロ流して剣を納めました。
結局、公孫淵を燕王にしてしまった孫権
しかし、孫権は張昭の諫言を聞き入れず、公孫淵を燕王に封じて張弥(ちょうや)と許晏(きょあん)を派遣しました。
それを知った張昭は怒り、病気と称して屋敷に引きこもります。
孫権は、それを聞いて怒り、「ならば、二度と屋敷から出るな」と言わんばかりに、張昭の屋敷の玄関を土で塗り固めました。それを知った張昭は、「おお、言われた通り、二度と屋敷から出んわい!!」と、屋敷の内側から玄関を土で塗り固めたと言われます。何でしょう、この二人の年齢差を感じさせない同レベルの喧嘩の凄まじさは、、(笑)しかし、張昭が言った通り、公孫淵は二枚舌の風見鶏でした孫権に燕王に任じられた後、魏帝の曹叡(そうえん)が公孫淵を大司馬に任命すると、あっさり魏に帰順してしまい、張弥と許晏の首を斬り、孫権に送りつけました。
張昭に謝罪の使者を送る
孫権は騙されたと分かると素直に反省して、張昭に、謝罪の使者を何度も立てて帰ってくるように促します。ところが、何度使者を送っても、張昭は返事をしないので、いよいよ孫権が自ら張昭の屋敷を訪ねると、頑固にもほどがある事に、玄関は土で塗り固められたままです。孫権は仕方なく裏口から張昭に戻るように声を掛けますが、張昭は重病を理由に会おうともしません。
「こっ、、このおいぼれぇ、、人が下手に出てりゃあ調子コキやがってだったら意地でも屋敷から追い出したるわ」
孫権は部下に命じて屋敷に火をかけさせます。
孫権、張昭の屋敷に火をつける
メラメラと燃えあがる炎で、屋敷からは、どんどん人が出てきます。(ふっふ、、これで、あの頑固爺ぃも外に出るだろう)孫権は余裕の笑みですが、幾ら待っても張昭は出てきません。どうやら、張昭は死んでも屋敷から出ないという意地を貫いてそのまま焼死するつもりだという事が分かり孫権は、顔面蒼白になります。
孫権、テンパる(笑)
「うわーーーっ!張昭、死ぬな!! お前達何をしている火を消さんかぁ!!」
今しがた、火をつけた部下は、大急ぎで張昭の屋敷を破壊して、延焼を防がせます。その間に張昭の息子達が、嫌がる張昭を抱きかかえて、無事に屋敷の外へ脱出させました。ここで、孫権は張昭に謝罪して、ようやく張昭は出仕を再開したという事だそうです。張昭は、このバトルの3年後、80歳で大往生しますが、柩は質素で、張昭も遺言で普段着で埋葬されました。
張昭に敬意を表した孫権
孫権もこの偉大な頑固者に敬意を表して、自身も平服で葬儀に参加したと言われます。孫権と言えば、大酒を飲んで家臣を斬ろうとしたり、苛烈な性格の持ち主ですが、張昭とのバトルは度が過ぎています。思うにこれは、9歳で父と死に別れた孫権が、父に反抗できなかった鬱憤を25歳年上の張昭にぶつけていたそのように思うのですがいかがでしょうか?
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