中国の正史・『三国志』の魏書東夷伝に、倭人(日本)関する記述されていた事により
邪馬台国と卑弥呼の存在が明らかになりました。
西暦238年、卑弥呼は使節を魏に派遣した年ですが、曹操や曹丕は既に亡くなっています。
当時の魏の皇帝は曹叡(そうえい)です。
卑弥呼が派遣した使者は曹叡に拝謁し、卑弥呼を親魏倭王(しんぎわおう)に任じて、
金印と銀印を与えたと史実に残されています。
そもそも何で、卑弥呼はこのタイミングに朝廷に貢物を送ったのでしょうか?
その裏には西晋の礎を築いた司馬懿の功績のおかげという説があります。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
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そもそも邪馬台国って何?
邪馬台国は大和朝廷が成立する前の弥生時代末期に日本列島に存在した国の1つ。
邪馬台国には倭女王・卑弥呼の宮室があった女王国です。
倭国は男の王様が治めていたが倭国全体で長期間に渡る戦争が起こり、
卑弥呼を王に共立することによって争いが収まりました。
※中国の複数の史書に記述が見られる、倭国全体での戦争は、
倭国の地域は特定されてないが、日本史上初の大規模な内戦だとする説もあります。
邪馬台国の所在地が九州にあるのか、
近畿にあるのか21世紀に入っても引き続き議論が続いています。
そして238年に卑弥呼が使者を派遣したことにより日本を代表する国として
中国皇帝に認知されることになりました。
この時代の史料を漢籍に依存しなければならない状況は、
東南アジアも日本も同様の事から、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は日本にとっても非常に貴重な資料になります。
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卑弥呼ってどんな人?
魏志倭人伝に卑弥呼について記されています。
卑弥呼は「鬼道に仕え、能く衆を惑わす」と記されている事から
卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)として神の言葉を民衆に伝えて人の心をコントロールし、
重要な事を決める時には必ず占いで決めていたそうです。
この事から邪馬台国は原始的な呪術国家ではないのか?という説もある一方、
卑弥呼の弟が政治を補佐していたという記述が残っている事から、
実際の統治は男子が行なう2元政治という説もあります。
卑弥呼は既に高齢だったので夫はいなく1000人の侍女を持っておりました。
王位に就いて以来は人と会うことはなく一人の男子が世話や取次を行い、
多数の兵士が女王・卑弥呼を守っていたとの事です。
卑弥呼が操っていた鬼道は、
呪術という解釈以外にも単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈があります。
漢籍に記述されている情報だけでは卑弥呼が扱っていた鬼道や更に詳しい人物像を完璧に把握することが出来きないのが残念ですね。
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司馬懿ってどんな人?
司馬懿の人格と人生観は中国でも日本でもあまり人気のあるほうではありませんね。
残酷冷酷な人柄で感情では決して動かないので、他の英雄達と比べると人間らしさを感じません。
それでも司馬懿は、魏で功績を立て続け、曹操からは「曹一族は司馬一族に乗っ取られるのでは?」と警戒されるほど。
西晋の礎を築いた司馬懿が立てた数々の功績を全て紹介しきれないので、
邪馬台国が魏と外交出来るきっかけとなった司馬懿の功績のみを紹介しよう。
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司馬懿が公孫淵を討伐
遼東(りょうとう)は中華園の北東端にあることから、当時の漢・魏では中華王朝から絶域とみなされていました。
それを理由に公孫一族は半独立的な地方政権として確立していきました。
238年には公孫淵(こうそんえん)が魏に背いて独立を宣言。
司馬懿は遼東を3代に渡り支配していた公孫淵を討伐したことにより、
断絶していた韓国や倭国との交通を50年ぶりに再開されることになりました。
父・公孫康は以前、曹操に貢献していた
ちなみに遼東郡は、曹操に敗れた袁紹一族の袁煕・袁尚が逃れた場所でもあります。
公孫淵の父は公孫康(こうそん こう)で、彼も曹操と縁がある人物ですが、
曹操から逃れてきた袁尚らがいる事で曹操が攻めてくることを恐れ、公孫康は
楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺害し、その首を曹操へ差し出した経緯もあることから曹操からは襄平侯・左将軍に任命されました。
どうやら公孫淵は邪馬台国を始めとする東方諸国の使者を遼東に留めて自らへ朝貢させていた説もあるそうです。
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遂に卑弥呼が魏と繋がる
公孫淵の討伐が終わるか終わらないかのうちに卑弥呼は魏に使者を朝貢することになります。
遠い倭国から魏に訪れたという事で、東夷諸国との外交が回復したと大々的に歴史に記されることになります。
その功績に称えられ卑弥呼は魏から「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号を与えられ
金印と銅鏡100枚など魏の皇帝から贈られる事になったのです。
朝貢といえ、称号や金印を贈る時点で非常な厚遇であり、いかに魏にとってこの外交が重要だったのか想像がつきますね。
元々、司馬懿は倭国や韓国との外交目的ではなく公孫淵が勝手に独立宣言をし
呉と共鳴をして魏に脅威を与える存在になったことから司馬懿が討伐にあたりました。
結果的に卑弥呼が魏に使者を派遣し歴史に名を残す事になったのです。
参考:
魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
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