呂蒙(りょもう)、字は子明(しめい)
汝南(じょなん)郡出身の呉の武将について、語りたいと思います。
「呉下の阿蒙(あもう)にあらず」
(昔のまま進歩していない人間ではない、という意味)
「士(し)別れて三日、即ち更に刮目(かつもく)して相待すべし」
(日々鍛錬していれば、三日もすれば人がかわったように進歩するから
先入観で人を見るな、という意味)
といった言いまわしでよく知られている人物です。
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武闘派で知略派で病弱
惜しい……!
ここにあと、「イケメン」というステータスが加わったら、
呂蒙は確実にあらゆる創作物においてヒーロー役をあてがわれたことでしょう!
すみません。話を戻します。
呂蒙は少年の頃、姉の旦那さんが戦いに行くのにこっそりついていき、
帰って来てからお母さんにしかられたというエピソードがあります。
そのとき呂蒙はこう答えました。
「虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うではありませんか。
僕はいつまでも、こんな貧乏暮らしをしたくない」
そんな非凡な才能を、孫策(そんさく)に評価され、
呉の武将として名を連ねることになります。
孫策の死後、呂蒙は頭角を現す
その後、孫策の死により、当主が孫権(そんけん)に変わってから、
呂蒙は徐々に頭角を現していきます。
210年、孫権の片腕ともいえる周瑜(しゅうゆ)が死亡し、
魯粛(ろしゅく)が後任となりました。
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頭がよくないので孫権に「勉強しろ」と言われる
その頃の呂蒙は、武将としての名は知られていましたが、
頭の方はあんまりよろしくない、と思われていたようで、
魯粛は呂蒙を軽んじていました。
ところがある日、
孫権から「おまえも勉強しろ」と言われたことをきっかけに、
呂蒙は学問にはげみ、どんどん知識を吸収していきます。
魯粛も「これほどだったとは」と驚くほどの智将に成長していたのです。
217年、魯粛が死ぬと、
孫権は、呂蒙を頼りにします。
蜀と接する重要な拠点を任せられた呂蒙は
魯粛と違って、劉備に対して強硬路線を選びます。
219年、蜀と荊州を巡って争い、
呂蒙はついに、あの関羽を討ち取ります。
しかし、なんということでしょう。
その直後、自らも病に倒れてしまうのです。
『三国志演義』では関羽の霊に呪い殺されたとされていますが
実は、呂蒙はもともと病気がちだったというのです。
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呂蒙のことが心配で心配で
もともとの病が悪化し、呂蒙は床につきました。
これまで、周瑜、魯粛と頼りになる智将を立て続けに
若くして亡くしてきたので、
孫権は、呂蒙のことが心配でたまりません。
莫大な賞金をかけてふれを出して医者を募ります。
そして、自分が見舞いに行っては、
呂蒙が気をつかって起きようとするのではないかと思い、
呂蒙の病室にのぞき穴をつくり、
そこから呂蒙の様子をじっと見守ります。
また、星に祈りをささげて、呂蒙の延命を乞います。
孫権の必死の想いが伝わったのか、
呂蒙は一時的に小康状態になります。
孫権は大喜びをして、大赦を行いました。
しかしながら、呂蒙の病は結局治ることなく、
享年42歳にして、孫権を残して亡くなってしまいます。
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この記事を書いた人:東方明珠
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通称「はじさん」のはじっこライター東方明珠です。
普段は恋愛系のノベルやシナリオを書いています。