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「燕」ってどんな国?キングダム戦国七雄を徹底紹介

2015年8月15日


 

楽毅

 

キングダムでは、レジェンド武将、楽毅(がっき)の活躍した土地である燕、

私達のイメージでは、燕=北なんですが、実は燕の首都の薊(けい)は

現在の北京だったりします。

 

では、戦国七雄の一国、燕(えん)とはどのような国だったのでしょう?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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燕の建国は召公奭(しょうこうせき)

燕の建国は召公奭(しょうこうせき)

 

燕を建国したのは、周の武王の殷(いん)討伐に功績があった

召公奭であると言われます。

 

彼は武王の同族でしたので歴とした王族という事になります。

元々、彼は、山東省の魯国の周公旦(しゅうこう・たん)

の隣に土地をもらい伯爵になりますが、

周の成(せいおう)の頃に、現在の燕の土地に移ったようです。

 

ただ、燕の事は当時の記録に乏しく、確実に燕が周王室と同じ

姫姓であるかどうかは分からず、結姓であるという遺跡もあります。

 

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春秋時代、荘公うっかりミスから斉の桓公より領地をもらう

 

春秋時代の燕についての記録は乏しいようです、燕は北方で中央から遠いので、

中原にある周王室からも縁が薄い土地だったかも知れません。

ただ、燕の18代目の君主、荘公(そうこう)が北方の遊牧民、

犬戎(けんじゅう)に攻め込まれた際に斉の桓公(かんこう)に

援軍を要請して、これを撃退した事があります。

 

この時に、荘公はあまりの嬉しさに帰還する斉軍を斉の国境付近まで

見送りするという大サービスをします。

 

当時、国境を越えて軍を見送るのは周王にしか出来なかった

 

ところが、うっかりしていた荘公は、国境を越えて斉の領地に入ります。

当時の常識では、国境を越えて軍を見送りできるのは周王のみであり、

荘公の行動は越権行為でした。

 

しかし、斉の桓公は、宰相の管仲(かんちゅう)にこれを指摘されると、

荘公に罪を与えまいと荘公が踏み込んだ部分を燕の領土として割譲しました。

 

これを知った周辺国は「流石は覇者の桓公、心が広いものだ」と心服して

桓公の名前は、さらに轟いたという事です。

でも、うっかりミスで領地を得たのなら荘公も悪い気はしなかったでしょうね。

 

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戦国時代に入り、燕は領地を拡大するも、残念な君主が登場

 

「史記」蘇秦(そしん)列伝によると紀元前334年の段階の燕は

「東に朝鮮・遼東、北に林胡(りんこ)・楼煩(ろうはん)、西に雲中(うんちゅう)・

九原(きゅうげん)、南に呼沱(こだ)・易水(えきすい)がある」

 

といわれており、すでに広大な領域を支配していたことが分かります。

 

記録にはありませんが、歴代の君主がコツコツと支配地を広げていたのでしょう。

ところが、その苦労を台無しにする残念な君主が登場します。

 

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38代国王 燕王噲(かい)宰相、子之(しし)に政治を丸投げ

 

燕が王を名乗るようになり二代目の燕王噲は、全く政治に関心がない人物でした。

在世中から、宰相の子之を盲信して隠居状態になります。

 

さらに、何を思ったか「燕王は子之にこそ相応しい」と自分から禅譲を行い

紀元前317年、王位を子之に譲ってしまったのです。

 

これには、息子の太子、平(へい)も家臣も激怒し、

新しく王になった子之に反抗し燕は意味も無く内乱状態に陥ります。

 

隣国の斉が、太子平を助けると援軍を派遣するが・・

 

それを見ていた斉は、太子平を助ける事を名目に大軍を派遣しますが、

途中で豹変し、子之も、太子平の軍も攻撃して撃破します。

ここで、燕の前王噲は戦死、 燕は全領土を斉に征服されて

亡国状態になりました。

 

復讐に燃える、太子平は燕最大の名君、昭王になる

 

太子平は、再び軍を立てなおし、子之を滅ぼして王位に就きました。

それを見た斉軍は、太子平が今後斉に逆らわないという条件で

軍を引き上げる事に同意しました。

 

しかし、斉に荒らされた燕の傷痕は深いモノでした。

即位して昭王になった平は、斉への恨みを晴らさんとして、

復讐の鬼になり黙々と国内の整備と人材集めに全力を注ぎます。

 

名将、楽毅(がくき)、燕にやってくる

 

燕の昭王は、人材を集めるのにお金と労力を惜しみませんでした。

まず郭隗(かくかい)という人物のアドバイスを受けて彼を重用して

師と仰ぎ、大きな宮殿まで建てて与えました。

それを見た各国の名士は、

「郭隗如きでも大事にされるなら、俺達も重んじられるに違いない」と

燕にどんどん集まっていきます。

率先垂範を意味する慣用句「まず隗より始めよ」は、これが語源です。

それにより小国の燕には、場違いな優秀な人材があつまり、

国力は劇的に回復し強くなっていきました。

 

その中で魏から飛び出した楽毅も燕にやってきます。

そして、斉に復讐せんとする昭王の為に斉を包囲する、

五カ国連合軍のプランを提案して自ら奔走し、

ついに、紀元前284年、趙、秦、韓、燕の五カ国50万の大軍を集めて、

斉軍を撃破して斉の領土を奪い30年に及ぶ昭王の恨みを晴らしました。

 

昭王が死去し、燕は弱体化する

 

この時、燕の領土は斉も併合して、秦をも凌ぐものになりましたが、

間もなく昭王が死んで、息子の恵王が立つと、斉の田単の策にハマり、

楽毅を更迭してしまいます。

 

斉軍はこれで息を吹き返し、折角奪った斉の領地は全て奪い返され

燕の領地は一気に縮小してしまいました。

 

燕、趙が秦に滅ぼされて慌てはじめる

 

そこからの燕は、名君も出ず、没落一直線でしたが前面に趙が存在し

秦の盾になっていたので、その脅威を感じないで済みました。

ところが、紀元前228年に、秦が趙を滅ぼすと秦の脅威が燕に

襲いかかる事になります。

 

燕の太子丹(たん)、荊軻を使って秦王暗殺を企む

 

燕の太子丹は、秦王政に個人的な恨みもあり、これを殺したいと

考え、暗殺者の荊軻(けいか)を呼び出します。

荊軻は、秦王を殺すには、燕の本拠地の地図と秦から亡命した将軍、

樊於期(はんおき)こと桓騎(かんき)の首が必要だと言います。

 

丹は「地図は兎も角、自分を頼って逃げてきた桓騎の首は取れない」と拒否。

荊軻は、それならばと桓騎と直接交渉し桓騎も

「俺の代わりに仇を討ってくれるならば喜んで・・」

と、みずからの首を刎ねて差し出します。

 

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荊軻、秦王暗殺に失敗、燕は滅ぼされる

 

ところが、荊軻の秦王暗殺は、あと一歩という所で失敗します。

暗殺の背景に燕がいる事を知った秦王政は激怒し紀元前226年

将軍王翦(おうせん)とキングダムの主人公、李信(りしん)に

軍を与えてこれを追討させます。

 

燕王の喜(き)は半年粘りますが、首都、薊を包囲されて遼東に亡命します。

しかし、それでも秦の攻撃は止まないので事件の元凶である息子の太子丹を

殺して、その首を秦の将軍の李信に届けて謝罪しました。

 

それから4年間、燕は遼東で亡命政権として存続しますが、

紀元前222年、秦王は気が変わり、再び燕王、喜を攻めて滅ぼしました。

ここで燕は滅亡して、その命脈を閉じています。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

燕は、春秋戦国時代の歴史の中では、ほんの一時の存在感ですが、

名将、楽毅を見出したり、一か八かの始皇帝暗殺を企んだりと、

時代の見せ場を作るのが上手い国であるように思います。

 

ただ、秦と隣接していなかったので、危機意識が鈍く、

最後の最期で秦と隣接して大慌てなどは、

中原から遠い国にありがちの情報力の弱さも感じますね。

でも、荊軻の始皇帝暗殺が成功していたら、秦はああいう

勢力争いが激しい国柄なので中国統一は、さらに数十年遅れたかも知れません。

 

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