『三国志演義』に登場する諸葛孔明は地理天文に通じ、星々の動きを見るだけで人間の運命や寿命まで読み当てたと描写されています。
星を見れば人の寿命がわかるなんてありえない。現代に生きる私たちは通常、常識的にそのように考えます。
孔明は星占いなんてものに頼るような、あやふやな人間だったのだろうか?そんな疑問を抱いた人も、あるいはいらっしゃるかもしれません。しかし、三国志の時代、天文は非常に重要な学問だったのです。それには占いというオカルト以上に、重要で切実な理由があったのです。
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4000年以上前にはすでに存在していた中国の占星術
中国においては、占星術は三国志の時代から遥かに昔、紀元前2000年頃にはすでに誕生していたと考えられています。実在が確認されている中国最古の王朝である殷(いん)よりも前の時代に、夏(か)という王朝があったと伝えられています。この夏王朝に義氏(ぎし)と和氏(わし)と呼ばれる二人の人物がいました。
中国の神話には羲和(ぎか)という太陽を司った女神が登場しますが、この女神の名前からそれぞれ「義」と「和」を取って名づけられた氏族の名であったという説があります。その名が指し示す通り、義氏と和氏は天文官として夏王朝に仕え、暦を定めたとされます。
あるとき皆既日食が発生しました。現代のような天文学が発達するはるか以前の時代、日食という現象は非常に不吉なものとして恐れられていました。しかし、肝心の義氏と和氏はこの現象が起こることを予め帝に伝えることはできませんでした。帝は大いに怒り、二人を処刑してしまったと言われています。
春秋戦国時代の中頃まで、王が戦を起こそうとする際には天文官が星占いを行い、その吉凶の判断に従って、戦争をするかしないかを決定していたと言われています。
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風が吹かせた孔明、雨を予知することはできなかった?
三国志演義における諸葛孔明は、地理天文に通じ、あたかも預言者のように物事の未来をも見通す神算鬼謀の持ち主として描かれています。赤壁の戦いにおいて、曹操率いる艦隊を焼き討ちするために、孔明は天に祈念し、東南の風を吹かせたエピソードはあまりに有名です。
また、その赤壁の戦いの後、かつて世話になった義理から曹操(そうそう)を見逃してしまった関羽を咎める劉備に対し、孔明が「私が天文を見る限り、曹操の命運はいまだ尽きてはおりません。関将軍の判断は間違ってはおりません」と言って諌めた話も知られています。
天文の知識を用いて風を起こし、一方では敵将の命運すらも読み解いてしまう。まさに神算鬼謀の主とはこのことではないでしょうか?ところが、そんな天文の知識に長けていたはずの孔明が、雨が降ることを予知できずに戦に勝てなかった、というエピソードも「演義」には存在します。
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北伐で孔明は司馬懿と対峙する
劉備亡き後、魏を討つための北伐の兵を起こした孔明は、魏の指揮官、司馬懿と対峙します。
孔明は一計を案じ、司馬懿を地雷(現代でいう爆弾のようなもの)で爆殺しようとしますが、折しも降りだした雨によってその火種が消えてしまい、みすみす司馬懿を取り逃がしてしまいます。作戦に失敗したことを知った孔明は天を仰いで、
『ああ……天候ばかりは、この私でもどうすることもできない……』と慨嘆しました。風を起こす知識を持っているはずの孔明が、雨を予知できなかった……ちょっと矛盾のある話ですよね?
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天文学は、古代文明でも発達していた
果たして、孔明は本当に天文学を学んでいたのでしょうか?
天文学は古代中国のみならず、多くの古代文明で発達していたことが知られています。バビロニアやギリシヤ、マヤなど、数多の文明が天文学を研究し、天文の運行についてかなり正確な知識を持っていたことは良く知られています。
世界最古、2100年前のコンピューター「アンティキティラの機械」
オーパーツ(ありえない遺物)として語られることも多い『アンティキティラの機械』は、調査の結果、当時の数学者や天文学者たちが天体の動きを予想するために作り出した機械式計算機であることが証明されています。なぜ、古代文明の支配者たちは、天文学を重視したのでしょうか?それは、農耕文明にとって、暦を作り季節を正確に理解することが非常に重要であるからです。
産業革命以前、人類にとっての最大かつ重要な産業は第一次産業、なかでも農業でした。食糧の生産力はそのまま国力を意味し、収穫の減少は国に重大な危機をもたらします。ですから、支配者たちは、国力を安定させ国を永続させるためい、農業に最も影響を与える気候・天候の変化を正確に知ろうとしたのです。
そこで重視されたのが天文学でした。古代人たちは天の星の動きに規則性があることに気づき、それを正確に理解することで暦を作り上げ、季節の変化を正確に把握しました。気候の変化がいつ起こるか、それを正確に把握することで、農業の生産効率を可能な限り高めることに成功したのです。
つまり、天文学は国を司る者にとっては必須の学問だったわけです。孔明が本当に天文学を学んでいたという、直接的に示す証拠はおそらくないでしょうが、後に蜀の丞相として国事を司った彼が天文学を学んでいた可能性は極めて高いと言えるでしょう。
三国志ライター 石川克世の推理
もちろん、天文は単に科学的な視点だけから研究されていたわけではありません。星占いのように、天体の運行にオカルト的な力の所在を信じる考え方は、現代にも残っています。
科学知識が広く一般に知られた現代においてもそうなのですから、古代中国の人々が星々に超常的なものに対する畏敬の念を抱いていたとしても、不思議はないでしょう。現代人にとっても、天文学を概要以上に深く知ろうとすることはなかなか難しいものです。
三国志演義が書かれた時代の人が、学術的な天文学の知識は端折って、オカルト的な占星術の方が広く信じられたことは想像に難くありません。孔明が天文の知識を持って風を起こし、人の生死を予知したとするイメージは、そうした民衆の一般的な天文への知識、あるいは関心が生み出したものだったに違いありません。それでは、次回もお付き合いください。再見!!