広大な始皇帝陵の一部である兵馬俑は2200年前の秦帝国の威容を現在に伝える貴重な文化遺産です。しかし、主に話題になるのは、高さ180センチ、重さ300キロの兵士俑なので、ここでは同じく大量に出土した戦車について書きます。
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この記事の目次
タンクじゃないよ、チャリオットだよ
戦車というと、現代人の私達は、どうしても鉄の装甲に覆われた大砲付き戦車を連想しますが、もちろん、兵馬俑から出てきたのは現代の戦車ではありません。それは、チャリオットという、馬に引かせる車輪付きの箱の事です。兵馬俑からは、130輌という戦車が発掘されています。
秦の戦車は4頭の馬で引くタイプでしたが、残念ながら、車体は木造なので、粘土の兵馬俑と違い、2200年の歳月で朽ち果ててしまいました。従って完全な姿で発見された戦車は一輌もありません。
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リアル志向の始皇帝は、兵馬俑に本物の武器や馬具を装備
始皇帝はリアル志向の人物でした、ですから、兵士俑にも実際に武器を持たせ戦車には、手綱や馬具、それに銅鑼や鐘というような金属製品を装備させて埋葬しているのです。それら金属は木よりも遥かに長い歳月を耐えますから、そのような遺物から秦の時代の戦車の形が分かってきました。
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秦の時代の戦車のフォルムとは?
秦で使用されていた戦車は、1・35メートルの二つの車輪に車軸、そして舵棒が装備されています。本体は長方形で幅1・4メートル、前後の長さは1・2メートルで、車体には40センチの囲いがついていました。また秦の時代の戦車は、出入り口が後ろについていた事が分かっています。そして、外装には漆を用いて、様々な模様が描かれていたようです。それが将軍用や皇帝用の戦車となれば、装飾は、より目立ち派手なものになっていったでしょう。
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戦車には二種類が存在した
秦の時代の戦車には、指揮車と一般車の二種類の戦車がありました。指揮車とは、文字通り、将軍のような司令官が乗り前線に指示を出す役割を持っています。この指揮車には、銅鑼と鐘が吊り下げられていました。
指揮車の銅鑼と鐘の役割とは?
指揮車には、3人の人間が乗り組みました、中央には馬を操る御者、左には将軍、右には兵士が立っていたようです。将軍の座席には銅鑼と鐘が用意され、戦況が有利と見ると銅鑼を鳴らして士気を鼓舞し、逆に不利になると退却の為に鐘を鳴らしたようです。もちろん将軍の戦車が前線に出る事はなく広大な戦地を駆け廻りつつ軍に指揮を出すのに徹したようです。
三国志の曹操も戦車に言及している
三国志の時代になると、戦車は100%時代遅れになりますが、それでも曹操(そうそう)が注釈した魏武(ぎぶ)注孫子には三国時代の戦車についての記述が出てきます。それによると、戦車には二種類あり、馬4頭で引く軽戦車と騎兵一万騎の防御力を持つ重戦車があったようです。この重戦車には、炊事係が二名、衣装などの世話をする秘書が一名馬の番をする人間が二名の非戦闘員五名と重戦車を守る兵卒十名が必要だと書かれています。
曹操の言う重戦車は動く要塞のようなもの
軽戦車は秦の時代と変わらないとしても、重戦車はただ事出ない程に、大勢の手が掛る様子から、これも前線に出るのではなく、恐らく指揮官が、後方で指揮を取る専用の乗り物のような感じです。
重戦車には、軍鼓や階閣を乗せて牛が引くものまであるようなので、袁紹(えんしょう)軍が官渡で使用した攻城塔の車輪があるバージョンを曹操は、重戦車と呼んでいたのかも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
今から見ると馬で引く戦車は、しょぼいかも知れませんが秦の時代には、騎兵が登場したとはいえ、まだまだ戦車は花形の兵器でした。戦国より少し前の春秋時代には戦車の数が勝敗を決めると言われた事もある位に、戦車は重要な兵器だったのです。そのような経緯を考えると始皇帝が130輌もの戦車を兵馬俑の中に入れた理由が分かるような気がしませんか?
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