劉曄(りゅうよう)は王族出身の超エリートで、後漢の始祖・光武帝劉秀の息子劉延(りゅうえん)の子孫です。
自称じゃないのと思う読者もいると思いますが、血統書付きの本物です。
今回はエリート参謀・劉曄(りゅうよう)を紹介します。
関連記事:【五胡十六国】ねぇ?三国志の後ってどうなるの?アフター三国志を紹介
関連記事:五胡十六国の火種は曹操が撒いた?各時代の異民族を紹介
王族の青年期
劉曄は王族ですから、いい暮らしして、オシャレな服着て、チヤホヤされてたんでしょ。
このように思っている読者が多いと思いますが、彼は全然違います。
王族なのに殺人を起こすのです。
劉曄は7歳の時に母親を無くしております。
母親は亡くなる前に「父の側近は悪い臣ですから、あなたが成人したら殺しなさい」と遺言を残して亡くなりました。
自分の母親の遺言が、「人殺しなさいなんて」現在じゃ考えられませんね。
劉曄が13歳の時、兄に遺言について相談をする
劉曄が13歳の時、兄貴である劉渙に母親の遺言について相談します。
しかし劉渙はこの話に乗ってきませんでした。
そのため劉曄は一人で、母親が指名した臣を殺し、遺言を果たします。
この事件がきっかけで、人物鑑定家の許劭から「冷静沈着で、豪胆な人」と称され、有名人になります。
曹操軍の参謀へ
劉曄は、曹操自ら揚州の賊軍を討伐時に仕官します。
漢中平定戦に参加し、優れた進言を行います。
曹操が、漢中への道が険しく、食料不足であったため、撤退をしようと考えておりました。
しかし劉曄は「ここで撤退したら、追撃を受ける可能性が高いでしょう。撤退せず、このまま進軍しましょう」と曹操に進言します。
関連記事:あの曹操が箱入り娘ってどういうこと!?華容道って、なに?
関連記事:曹操孟徳と織田信長の共通点!あなたはいくつ当てはまる?
曹操は劉曄の進言を受け入れる
曹操は、彼の進言を受け入れ、戦いを継続した事で、漢中を得ることができました。
曹操は漢中を手に入れ、首都に帰還しようと準備を行います。
劉曄は、曹操が撤退するとの噂を聞きつけ、急いで曹操の元に行き進言します。
「今我らは、漢中を手に入れました。この勢いで益州の劉備軍に攻撃をかけましょう。
劉備は益州を手に入れたばかりで、今なら簡単に劉備を倒すことができるでしょう。」と強く進言します。
同じことを司馬懿も進言しますが、曹操は二人の言葉を退け、首都へ帰還します。
沈黙の謀臣
劉曄は、曹丕(そうひ)の時代にも活躍し、魏の参謀として着実に功績を残していきます。
曹叡の時代に重臣として重用されます。
関連記事:曹丕が建国した魏ってどんな王朝でどうやって滅びたの?
関連記事:曹丕(そうひ)得意の詩で蜀の調理法を斬る
関連記事:そうだったのか!?曹丕はスイーツ男子。詩にスイーツの想いを込めちゃったよ!
曹叡時代にも活躍
曹叡が皇帝として即位したころ、ほかの重臣が居並ぶ中で、劉曄だけが皇帝に呼ばれます。
劉曄は、曹叡と連日連夜話し続け、数日後解放されました。
魏の重臣は、劉曄が曹叡の部屋から出てきた事を聞きつけ、彼に曹叡の感想を聞きます。
劉曄は「始皇帝や漢の武帝に近い存在である。だが、彼らに少しだけ、及ばない。」と評したそうです。
また曹叡が蜀討伐の計画を企画した時、劉曄に提案され、彼は賛成します。
劉曄が賛成した事に自信を持った曹叡は、群臣の前で蜀討伐の計画を発表します。
劉曄はこの時猛反対します。
曹叡は劉曄を呼び出し、「お前さっき賛成したのに、何で反対してんの。」と劉曄に激怒します。
彼は冷静に「蜀討伐は、大事な計画です。ですから計画を簡単に漏らしてはなりません。
皆の前で発表するのはもってのほかです。」と冷静に反論し、曹叡に国家の方針の重要性を諭しました。
劉曄は、その後数々の功績を重ねていき、彼の亡くなった後は侯の位を追贈されます。
三国志ライター黒田廉の独り言
傅玄が記した「傅子」という書物によると、劉曄の晩年は曹叡に嫌われたそうです。
青年期の時には、呉の魯粛(ろしゅく)などと親交がありました。
しかし魏国では他の群臣達とあまり親交が無いため、独りぼっちで、死んだそうです。
彼は、生前自分の気持ちをあまり人に言わなかったようで、他人に理解されなかったそうです。
彼は兵器の発明にも優れた功績を残し、官渡の戦いの時に「霹靂者」を開発した事で、有名です。
今回のお話はこれでおしまいです。それではまたにゃ~
関連記事:潼関の戦いに参加した異民族、阿貴と千万とはどんな人?
関連記事:『ろくでなし三国志 本当はだらしない英雄たち』の批評が過激的!あなたの好きな英雄もdisられている?