劉曄(りゅうよう)ってどんな人?王族出身の名門参謀でもあり魏の重臣

2015年11月14日


 

劉曄(りゅうよう)

 

劉曄(りゅうよう)は王族出身の超エリートで、後漢の始祖・光武帝劉秀の息子劉延(りゅうえん)の子孫です。

自称じゃないのと思う読者もいると思いますが、血統書付きの本物です。

今回はエリート参謀・劉曄(りゅうよう)を紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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王族の青年期

 

劉曄は王族ですから、いい暮らしして、オシャレな服着て、チヤホヤされてたんでしょ。

このように思っている読者が多いと思いますが、彼は全然違います。

王族なのに殺人を起こすのです。

劉曄は7歳の時に母親を無くしております。

母親は亡くなる前に「父の側近は悪い臣ですから、あなたが成人したら殺しなさい」と遺言を残して亡くなりました。

自分の母親の遺言が、「人殺しなさいなんて」現在じゃ考えられませんね。

 

劉曄が13歳の時、兄に遺言について相談をする

 

劉曄が13歳の時、兄貴である劉渙に母親の遺言について相談します。

しかし劉渙はこの話に乗ってきませんでした。

そのため劉曄は一人で、母親が指名した臣を殺し、遺言を果たします。

この事件がきっかけで、人物鑑定家の許劭から「冷静沈着で、豪胆な人」と称され、有名人になります。

 

曹操軍の参謀へ

魔王曹操

 

劉曄は、曹操自ら揚州の賊軍を討伐時に仕官します。

漢中平定戦に参加し、優れた進言を行います。

曹操が、漢中への道が険しく、食料不足であったため、撤退をしようと考えておりました。

しかし劉曄は「ここで撤退したら、追撃を受ける可能性が高いでしょう。撤退せず、このまま進軍しましょう」と曹操に進言します。

 

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曹操は劉曄の進言を受け入れる

現実主義曹操

 

曹操は、彼の進言を受け入れ、戦いを継続した事で、漢中を得ることができました。

曹操は漢中を手に入れ、首都に帰還しようと準備を行います。

劉曄は、曹操が撤退するとの噂を聞きつけ、急いで曹操の元に行き進言します。

「今我らは、漢中を手に入れました。この勢いで益州の劉備軍に攻撃をかけましょう。

劉備は益州を手に入れたばかりで、今なら簡単に劉備を倒すことができるでしょう。」と強く進言します。

同じことを司馬懿も進言しますが、曹操は二人の言葉を退け、首都へ帰還します。

 

沈黙の謀臣

曹丕 残忍

 

劉曄は、曹丕(そうひ)の時代にも活躍し、魏の参謀として着実に功績を残していきます。

曹叡の時代に重臣として重用されます。

 

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曹叡時代にも活躍

曹叡

 

曹叡が皇帝として即位したころ、ほかの重臣が居並ぶ中で、劉曄だけが皇帝に呼ばれます。

劉曄は、曹叡と連日連夜話し続け、数日後解放されました。

魏の重臣は、劉曄が曹叡の部屋から出てきた事を聞きつけ、彼に曹叡の感想を聞きます。

劉曄は「始皇帝や漢の武帝に近い存在である。だが、彼らに少しだけ、及ばない。」と評したそうです。

また曹叡が蜀討伐の計画を企画した時、劉曄に提案され、彼は賛成します。

劉曄が賛成した事に自信を持った曹叡は、群臣の前で蜀討伐の計画を発表します。

劉曄はこの時猛反対します。

曹叡は劉曄を呼び出し、「お前さっき賛成したのに、何で反対してんの。」と劉曄に激怒します。

 

彼は冷静に「蜀討伐は、大事な計画です。ですから計画を簡単に漏らしてはなりません。

皆の前で発表するのはもってのほかです。」と冷静に反論し、曹叡に国家の方針の重要性を諭しました。

劉曄は、その後数々の功績を重ねていき、彼の亡くなった後は侯の位を追贈されます。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

傅玄が記した「傅子」という書物によると、劉曄の晩年は曹叡に嫌われたそうです。

青年期の時には、呉の魯粛(ろしゅく)などと親交がありました。

しかし魏国では他の群臣達とあまり親交が無いため、独りぼっちで、死んだそうです。

 

彼は、生前自分の気持ちをあまり人に言わなかったようで、他人に理解されなかったそうです。

彼は兵器の発明にも優れた功績を残し、官渡の戦いの時に「霹靂者」を開発した事で、有名です。

今回のお話はこれでおしまいです。それではまたにゃ~

 

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