皆さんは孫呉の武将・朱然(しゅぜん)を知っていますか。マイナーすぎて知らない人が多いと思います。ですので、今回は読者が少しでも呉に興味を持ってもらうため、呉の武将・朱然をご紹介していきたいと思います。
この記事の目次
最初の姓は朱ではなかった
冒頭で彼の名前は朱然と記載しましたが、若かりし頃は朱然ではなく、施然という名前でした。ではどうして名前を変更したのかといいますと、彼の母親の弟である朱治に跡取りが、できませんでした。孫策(そんさく)が仲立ちを行い、施然が朱治の家に養子に入った事で、朱然と名乗る様になります。
孫権と共に勉強を励む
朱然はその後、孫策の弟である孫権(そんけん)と共に勉学に励み、二人は学友として共に育ちます。孫策の跡を孫権が継ぐと朱然は、すぐに県の長に任命され、その後もトントン拍子で出世していきます。孫権は朱然のために丹陽という地をわざわざ分割し、臨川郡を設置して、臨川太守に任命するほど高く信頼しておりました。
孫権の信頼に応え、孫呉を支える柱へ
朱然は、あまり実績のない自分を厚遇してくれた孫権の信頼にしっかりと応えていきます。山越族が反乱を起こした際には、一ヶ月あまりで平定し、されに曹操(そうそう)軍が大軍を率いて、濡須へ侵攻してくると守備を命じられた場所をしっかりと守り、曹操軍の侵攻を許しませんでした。これらの実績が孫権に認められ、偏将軍の位を授かります。
関羽討伐戦にも貢献
関羽(かんう)討伐戦に従軍し多際には、同僚の潘璋と共に別働隊を率いて、関羽を捕縛する大功を立てます。この時、総司令官である呂蒙から「決断力・実行力共に申し分ない実力である」と大いに朱然を褒め称え、
自分の後継者として孫権に推薦します。孫権は呂蒙(りょもう)の評価を聞き、荊州の要である江陵守備を命じます。
夷陵の戦いにも貢献
その後、劉備(りゅうび)が蜀軍を率いて夷陵に侵攻してきます。朱然は、総司令官・陸遜(りくそん)と共に出陣します。
陸遜が、蜀軍を火計と呉軍の猛攻により、大損害を与えている間、朱然は別働隊を率いて、退却路を塞ぎます。そのため退却してきた蜀軍に痛撃を与え、戦果拡大に大いに励みました。この大勝利の後、諸将は劉備を打ち取るため、白帝城を攻略する様に陸遜に求めます。
朱然は魏の動向が怪しいと察知
朱然は、魏の動向が怪しいので荊州方面の守備を固めるべきであると、進言します。陸遜は朱然の意見を採用し、すぐさま荊州の防備を固め、彼には江陵城の守備を命じます。朱然の読み通り、魏軍は張郃(ちょうこう)や曹真(そうしん)などの歴戦の武将と大軍を率いて侵攻して来るのです。江陵を救うために来た呉軍の武将は敗れ、城内には疫病が蔓延して、守備兵が激減します。さらに江陵城では、魏軍に内応する者が出るなど絶望的な状態になります。しかし朱然は、冷静に対応し、まず内応した人物を処刑します。その後、城門を開き敵陣をいくつも破砕し、奮戦します。
魏軍を撤退させた朱然
このように状況に応じた、適切な判断により、江陵城は何とか持ちこたえ、魏軍は撤退します。江陵城攻防戦における朱然の活躍は、孫呉の中で有名になり、国家の中核を担う人物と認められます。さらに敵国である魏の国内にもその勇名が響き渡りました。
惜しまれた朱然の死
孫呉の歴戦の武将が相次いでなくなり、諸葛瑾の息子・諸葛恪(しょかつかく)や歩騭の息子・歩協などの2世武将たちが前線で活躍する時代になります。朱然は彼らのまとめ役として、度々総司令官に任命され、軍功を重ねて行きます。孫権はますます、朱然に対しての信頼を厚くしますが、彼は病に倒れてしまいます。孫権は、朱然が病に倒れたと聞くと、すぐに薬や医師、見舞いの品などを贈ります。しかし完治するには至らず、闘病生活2年目にして、朱然は亡くなってしまいます。彼は病気療養中も仕事を行い、江陵の防備を厚くするための付け城の建築指示などを行っていたそうです。孫権は彼の葬儀は盛大に行い、心を込めて哭礼を行ったそうです。
関連記事:超短気の甘寧、凌統・呂蒙との珍エピソード
関連記事:あの甘寧が? 天下二分の計を唱えた三国志一の海賊王
三国志ライター黒田廉の独り言
朱然の性格は明るく、質素な生活を送っていたそうです。また戦の際は常に先頭に立って兵士を指揮し、絶望的な状況に陥った時には冷静な判断を行い、諸将や配下に動揺を見せなかったそうです。
関連記事:三国志時代に降伏や降参するときはどうやってサインを出していたの?
関連記事:【素朴な疑問】三国志時代はどうやって兵士を集めていたの?